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「エイジさん、起きてますか?」
「おかげさまでな」
「もう一度言いますよ。明日、いつでも構いませんので、我が社に寄ってもらいたいんですが」
時々ワットは「我が社」という古風な言い回しをする。いや、そんなことよりも、我が社に寄れ、ということは、むろん仕事の話以外考えられない。
短い冬の間は、ワームの活動もさすがに鈍くなる。おれたち害虫屋にとっては、いわばシーズオフとなるうえ、例の政権交代の影響でこの有様。これはもう、次の夏季まで仕事はお預けか、と、なかば覚悟していた矢先、唐突にお呼びがかかったのだから、驚きもする。
(間違いなく大モノだな……)
小口の仕事なら、電話口で済ませられるだろう。だいたいそんな軽い依頼が、元処理班に回ってくるわけがない。しかもこの季節、刷新の圧力を突破して舞い込んだのだから……受話器を持つ手が汗ばむのがわかった。IBとお見合いするよりは千五百倍ましだが、緊張するなというほうが無理だ。怖気づかないよう、おれはわざと話題を変えた。
「つかぬことを訊くが、刷新の愉快なガスマスク部隊がそっちに行かなかったか?」
「身に覚えがありませんね。武装警官にでも踏みこまれたのですか」
「お目当てはおれじゃなかったけどな。ガスマスクなだけに、いろいろと嗅ぎつけていたよ。そっちの端末、ガス洩れは大丈夫か」
「我が社では、従業員の個人情報はクローズドサークルシステムで管理しております」
「いかにも問題やら殺人やらが起きそうなシステムだな。ともかく、明日は寄らせてもらう。いかにもヤバそうなにおいがするけどな。背に腹は変えられん」
一名余分に養わなくちゃいけなくなったし。そう考えながら苦笑していると、いきなりやつは天井まで飛び上がりそうになることを言った。
「そうそう、忘れるところでした。明日はエイジさんの新しい家事用チャペックと、ご同行願います」
問いただす前に電話はきれていた。
かけ直そうと思い、電話機のフックを叩いたところで、思い直した。都合の悪い電話に、やつは出ないし、出てもはぐらかされるだけだ。三十にもなろうという男が、十一歳の洟たれに翻弄される姿は情けないが、ワットは特別、というより異常だ。ガキの皮をかぶった怪物だ。
やつがどこまでアマリリスの実情を把握しているのか、わからない。ゆうべの電話で、チャペックの買い替えを勧めたことからして、八幡兄弟か、あるいは博士あたりとグルだったのかもしれない。竹本商事は、八幡商店の立派な取引先であり、またどうやらワットは変態博士と個人的な付き合いがある様子だから。どこから情報が洩れても、不思議はないのだ。
部屋はほとんど闇に包まれ、相変わらず静まり返っていた。煙草を探ると、肘が何かに触れて、蒼い光が間近でともった。机の上のノート型コンピュータは、夢の中同様、二つの「Room」のうち一つを選択せよと、無言の催促を続けている。あんな夢を見るなんて、二葉に何を言われても文句は言えまい。
(案外、ものすごく女に飢えているのかもな)
レイチェルの裸体が思い返された。手を伸ばせば触れられそうだったし、触れたとたん彼女の肌は、指の間でぐにゃりと押しつぶされそうだった。なによりも、薄闇の中に浮かぶ目の輝きが、生々しく脳裏に焼きついていた。現実に、彼女がそこに立っていたとしか、思えないほどに。
煙草に火をつけて、深々と煙を吸った。気のない素振りにシンシンな興味を隠しつつ、ネズミを動かし、クリックした。たちまち画面が黒く塗りつぶされ、時折走る走査線のほかに、何も見えなくなった。おれは煙と一緒に苦笑を洩らした。寝室のほうを選択すると、窓から射す外光がわずかに映る程度で、こちらも画面の大半を闇が占領していた。
「マスター。もう起きていらっしゃいますか。ご夕食は、いかがなさいますか」
あたふたと、コンピュータの電源を落とした。寝起きなので、たいして腹も減っていないが、かといってすることもない。
「電気をつけていいよ。これから作るのかい?」
「温めるだけですので、十五分以内にご用意できます。メニューはシーフードドリアと玄三豆のスープ。それとマカロニサラダです」
「シーフード、ね……いただくとしようか」
かつては生命の故郷といわれた海も、現在は突然変異体のルツボだ。両極をのぞく、ほぼ全域が汚染地帯に指定されていた。
海底油田から大量の原油が流出し、その他の汚染物質と混ざり合い、さらに水棲のイミテーションボディが入り込んで、生命体の遺伝子はめちゃくちゃに掻き乱され……要するに、何が棲んでいるのかわからない状態。のんびり釣糸でも垂らそうものなら、オルドビス紀に絶滅したような化け物が、うじゃうじゃ釣れるだろう。
むろん食卓にのぼるのは、戦前に保存された遺伝子を「解凍」した魚介類だ。アマリリスはエビや貝を上手にキノコと組み合わせ、見た目も奇麗なソースをたっぷりと用いた。曲がりなりにも、ここにおいておれは、念願のキノコ料理にありつけたわけだ。