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「けっきょく、だれが駒鳥を殺したのか、わからずじまいってことよね」
厨房で仕入れた業務用ポテトチップスの大袋を開きながら、二葉が言った。霞美は、二人ぶんの紅茶をカップに注ぎ終えたところ。
部屋にはほかに、だれもいなかった。ためしに、隣のベッドの上段を覗いてみたけれど、もぬけの殻。
「夜間支配人が言ってたように、消去法でいくと、メイド長か、恵理子さんが『犯人』ってことになるのかしらね」
亜門の話によれば、エグゼプティブ・ハウスキーパー五十嵐冬美には、疑わしい点が多々みられるという。第一に、なぜ、彼女は早朝六時に、グム・ダラウドの部屋を訪ねたのか?
「ボイラーに不備があるようだったから、というのが、五十嵐さんの言い分でしたね。ミーティングが始まる前に、ホテルの隅から隅まで点検するのが日課なのは、有名みたいですけど」
「不備があったのは事実。五〇二号室内のコックが、閉まりすぎていたらしくて、一階のボイラー室の管理パネルにも、黄色ランプがともっていたみたい。ただ不審なのは、それは技師の領域であって、メイド長がとやかくする問題ではない。そもそもボイラー室なんかにまで、足を運んでいること自体、おかしな話よね」
「キャンディーさんも、昨夜、ボイラーの修理をしていたとか、言ってましたね」
「ここのメイドは、揃って配管の免許でも持ってるのかしら。それで『アリバイ』のほうはというと、昨夜二一時から二二時にかけて、彼女は自身のオフィスで仮眠をとっていた、ということになっている。もしほかの時間だったら、あのメイド長も眠るのかという、笑い話で済むんだけど」
ポテトチップスを噛み砕き、紅茶を口に含んだ。じつに邪道な組み合わせだが、怠惰な時間を過ごしたいときはこれに限る。
けっきょく、ダラウドの死によって、この日の二人の予定は、宙ぶらりんになってしまった。かといって、もちろんおおっぴらに遊び歩くわけにもゆかず、事実上の監視下におかれ、「メイド部屋」で謹慎させられている。アンニュイな気分にも、なろうというもの。
紅茶はちょっと、変わった味がした。そういえば、ずいぶん鮮やかな赤が、磁器に映えている。もの問いたげな視線を送ると、
「ラズベリーです。王道からは外れますけど、たまにはこういうのも」
「アンニュイで宜しいわ。それにしても、よくわからないのが、あの赤間恵理子という女よね」
空っぽのベッドを見上げた。ついに二人とも、彼女の顔を一度も見なかった。実在していたかどうかさえ、今となっては疑わしい気分。そんな彼女が、今頃になって、殺人の重要な容疑者として名指しされたまま、姿を消してしまうのだから。
「キャンディーによれば、二二歳で、第三大学の卒業生だとか。製薬会社の重役の娘だったけど、事故で両親を亡くしているとか。三大といえば、霞美のお父さんがいるところよね」
はい。と、うなずいた彼女の顔が、心なしか曇って見えた。
三大は理系に特化した大学だから、もちろん恵理子もそうなのだろう。霞美が機械生命体の研究者である、鳥辺野博嗣の娘であることといい、嘘か真か、配管の免許を持っているキャンディーといい、なぜこのホテルには、機械と縁のある連中が集まっているのだろう。
あるいは、相崎博士を二階に住まわせている、八幡兄弟の妹も、その一人に入るのか。ぱりり、と二葉はポテトチップスを噛んだ。
「驢馬の頭の皇帝の部屋を辞して、わたしたちが『メイド部屋』に戻ったとき、恵理子さんはすでに居なかった。キャンディーが、わざわざベッドに上って確かめたのだから、間違いない。そのまま一晩じゅう、戻らなかったことも」
ホテルへの出入りは、厳重にチェックされる。従業員が専用口から外に出るには、必ず守衛の前を通らねばならず、赤間恵理子が、一度もそこを通らなかったことは、はっきりしている。ただ、トレイの窓などの脱出口が、ほかにないわけではないが。
「でも、わたしたち、ダラウドさんの部屋に行く前に、恵理子さんと喋っていますよね」
「そう。だからもし彼女が殺したのだとすれば、その後ということになる」
「もしもあれが本当にダラウドさんだったら、でしょう?」
「夜間支配人も、その点を疑っていたっけ。でもわたしには、あれがほかの人物だったとは、到底思えないんだなあ。お世辞にも、まともじゃなかったけど。あれが他人による演技だとすれば、充分それで食べていける、その道のプロだわ」
「その道、ですか」
意味ありげに霞美が繰り返し、二葉はハッと胸を突かれた思いがした。「その道」が大道芸ばかりとは、限らないのではないか。要人の声色や仕草を、巧みに真似ることができれば、護衛、スパイ、暗殺など、さまざまな用途に応用できるだろう。
不意に、キャンディーこと生田累の姿が、脳裏に浮かんだ。