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亜門のオフィスに入ると、椅子が二脚用意されていた。昨日呼ばれたときは、立ったままだったが。と、二葉はぼんやり考えた。
昨日と異なり、エグゼプティブ・ハウスキーパー、五十嵐冬美の姿はなかった。
第一発見者は、「メイド長」だった。なぜ「専属メイド」の二人を差し置いて、今朝、彼女がダラウドの部屋に入ったのか、その理由を二葉は知らない。ただ、自分たちが世にもおぞましい光景を見なくて済んだのは、彼女のおかげだと言えた。
「あらましは、生田くんから聞いていますね」
同時に、二人はうなずいた。一人はあくまで生真面目に。もう一人は、いささか反感をこめて。「夜間支配人」亜門真は、死んだ男の「専属メイド」たちを、見比べるように眺めると、脚を組み替えた。キザなくらい長い脚だ。と、二葉はぼんやり考えた。
「先に申しておきますが、この件に関して、当局が介入してくることは、ございません。よってあなたたちが、武装警察による取調べを受けるような事態も、起こらないということです」
「それって……」
「もちろん、脅し文句ですよ」
いけしゃあしゃあとそう言って、口の端を歪めてみせた。古い三流映画で、有名になる前のスターが演じた悪役のように。
二葉は無遠慮に溜め息を洩らした。
「口外したら、ただじゃおかない、と。でも、現実にこのホテルで、人一人が亡くなっているわけでしょう。それも間違いなく、他殺なんですよね。黙っていて済む問題じゃないと、思うんですけど」
キャンディーこと、生田累の話によると、エグゼクティブ・ハウスキーパー、五十嵐冬美が、「所用のため」グム・ダラウドの宿泊する五〇二号室を訪れたのは、今朝六時〇二分。
以下の場面は、二葉がキャンディーの話を想像で補いながら、再構成したものだ。
ノックをしたかどうか、わからない。五〇二号室のドアは、彼女専用の合鍵で開けられていた。電灯は消えており、異臭がたちこめていた。 冬美はとっさに、ハンカチで鼻を覆った。沈静作用があるという宣伝文句に惹かれて買った、強めの香水が染みこませてなければ、たちまち嘔吐していただろう。腐臭とも死臭ともつかない、あらゆる禁忌すべきものを、どろどろに溶かしたような、ひたすら嫌悪をさそう異臭。
すがるように壁を探り、電灯のスイッチを入れたが、ともることはなかった。そうこうするうちにも、夜は明けはじめており、厚手のカーテン越しに洩れる外光が、部屋の中の輪郭を、徐々に闇から分離させた。
リビングルームに人影はなかった。
ハンカチを押し当てたまま、夢遊病者めいた足どりで、冬美はリビングを横ぎった。病的なまでに几帳面なダラウドに似ず、調度の乱れが気になった。椅子がひとつ倒れており、飾り棚の戸は開きっぱなし。ライティングビューローの中には、書籍がこれでもかと詰めこめられていた。
言ってしまえば、それだけの乱れだ。機銃掃射を浴びたように、すべてが粉々になっていたわけではない。にもかかわらず、それは取り返しのつかない、破滅的な乱れに感じられた。踏み込んではならぬ領域への、ボーダーラインを踏み越えてしまったような。
寝室へ通じるドアは、わずかに開いていた。隙間から濃厚な異臭が洩れていた。眉をひそめ、吐き気をこらえながら、五十嵐冬美はドアを全開にした。エグゼプティブ・ハウスキーパーとしてのプライドがなければ、とっくに逃げ出していただろう。
牡牛を一頭、まるごと解体し、部屋じゅうにぶちまけたようだった。
グム・ダラウドの屍骸は、ワームに食い荒らされていた。切断された頭部は、黄金の月桂冠を戴いていた。狂気のように張り上げる自身の悲鳴を、彼女は遠くで聞く思いがした。
(それが、どうして他殺だと?)
(弾痕があったそうよ。そっちが、致命傷。ワームに切り刻まれたのは、撃たれた後ね)
検視の真似事でもしたのかと尋ねると、生田累は意味ありげに、うなずいてみせた。
(つまり、そのての医師が、四六時中、駆けつけることができる環境にあるのが、このホテルというわけ)
ここまで話を聞いて、二葉は、強烈な違和感を覚えずにはいられなかった。もとより、最初から最後まで奇怪至極なのだが。キャンディーの暗示的な視線も、おそらくこの違和感について、示唆しているのだろう。そう、「メイド長」は合鍵を使って、五〇二号室に入ったのだ。
これはいわゆる、密室殺人ではないのか。