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いきなり麗子にそう言われ、まるで数学か物理学にでも、呪われているような気分になった。
「おれは夕飯も食わずに、働かなければいけないのかな」
「夕食でしたら、滝沢さまとご一緒にとられることをお勧めします」
「睡眠時間の問題はどうなる?」
「それも……」
滝沢さまとご一緒に、というのか。破裂しそうになる癇癪を、強いてなだめ、どうにかこうにか、苦りきった笑みに変えた。
「なあ、どうしてきみたちは、そこまで『滝沢さま』にこだわるんだ? いや、これは愚問だったか」
ワットのことだから、料金相応のケアをしているに過ぎない。茨城麗子まで出して、雇用促進住宅ごときを警護しているということは、相当金になる依頼なのだろう。けれど、昨夜、部屋にぶちまけられた、彼女の荷物を見た限りでは、ワットが目の色を変えるほど、贅沢な暮らしをしているようには、とても見えなかった。
裏で金を出しているやつが、いるのかもしれない。となると、それは自称動物愛護団体、サイレント・スプリングにほかなるまい。
「じつを申しますと、今回の件で、社長が何を考えていらっしゃるのか、わたしにもよくわからないのです。ただ、この依頼が、例の二つの事件とリンクしており、それらを総括する出来事へと発展するのではないか。そう考えていらっしゃるのは、確かではないでしょうか」
麗子は深々と礼をして、闇の中に消えた。彼女の車のエンジン音が、いやに遠く感じられた。くわえたままの煙草は、すっかり短くなっていた。
(ケリをつけてくれるというのか。あの理論という女が。『人食い私道』と『幽霊船』がもたらした、いやになるほど迷路じみた謎々に)
暗い階段に足音が冷たく響き、相変わらずだれとも、すれ違わなかった。いつの間にか、レイチェルを最後に見た踊り場で、立ち止まる癖がついていた。おれは新たに煙草に火をつけ、たった今、のぼってきたほうを見下ろした。
再生ランプが断末魔をおもわせる、緑がかった光を投げかける中、雨の音が、うつろにこだまを返していた。
(サミダレムシ……か)
おれの腕の中で、鳩のように震えていた女。犬に追いかけられたのだと、彼女は言った。明らかに、サミダレムシに寄生された犬に。そしておれは今日、同じワームの巣にされた人間の子供と、行き逢わねばならなかった。
「これは偶然なのか? 教えてくれ、レイチェル」
声の残響は、たちまち雨音に食い尽くされた。
部屋には灯りがともり、温かく、よい香りが漂っていた。いくらか救われた気分になって、キッチンをのぞくと、アマリリスはすでに「いつもの」服に着替えており、小さな体をくるくると翻しながら、夕食の準備に余念がなかった。メインはビーフシチューとおぼしい。
むろん、本物の「ビーフ」など、とっくの昔から禁制品であり、刷新会議の天下となった後は、闇市でもめったに手に入らないと聞く。中毒例があまりにも多いため、というのが建前だが、食ったことがないので、本当のところは知る由もない。おれたち庶民の口に入るのは、だから百パーセント培養肉である。
「すまないが、おそらく三人ぶん、用意してもらうことになると思う。とりあえず、シャワーを浴びてくるよ」
ワームの体液臭のする体を、一刻も早く、どうにかしたかった。三日に一度はストライキを起こすボイラーも、さいわい今夜は機嫌がよく、やっと少しばかり人心地がつけた。生乾きの髪のまま、廊下に出て、隣室をノックすると、開いているという返事。命を狙われていると称するわりに、無用心極まりない。
ドアを開けると、聖誕祭の飾りのような、下着の林に出迎えられた。滝沢理論の部屋の中は、相変わらずノルウェー辺りの森だった。
「お忙しそうで」
思わず上着を掻き合わせたほど、部屋の中は冷えていた。これほど散らかっているにもかかわらず、ひどく殺風景な印象を受けた。まるでレイチェルが消えた後、この部屋に入ったときと、何も変わっていないような。
理論は昨夜と変わらぬ姿勢で、床に座っておれを見上げ、指でちょっと眼鏡をずり上げた。ただ、昨夜はスーツ姿だったが、今はジーンズの上から、ざっくりとセーターを着ていた。相変わらず地味な恰好だが、目の粗いセーター越しに、盛り上がるおっぱいの存在感は、圧倒的。
「きみのお仲間もね。雨の中、盛んにシュプレヒコールをあげる姿を、車の中から見かけましたよ」
まるでクーデターの夜のように、サーチライトが交叉していた。蠢く人影の向こうには、新東亜ホテルの古めかしい建物が、威圧的にそびえていた。あの奥に隠された別館があり、二葉が中にいるはずだった。