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入りなさいと言われても、鍵がかかったままだし、一向にドアを開けてくれそうにない。二葉は、なかば無意識に時計を読んだ。二一時二三分。もう一度ノックしようとした、霞美の手を制して、キャンディーが合鍵を差し出していた。
「用意がいいわね」
二葉の皮肉を聞き流し、促すように、その古めかしい鍵を振ってみせた。霞美が素直に受け取ると、鍵穴に差し込んだ。
「失礼します」
ドアを開けたとたん、異臭が鼻をついた。嗅ぎ慣れた消毒液臭の底に、得体の知れない、饐えたようなにおいが、わだかまっていた。部屋の中はいつになく暗く、ダウンライトの灯りに、調度類がぼんやりと浮かんでいた。何者かの襲撃におびえ、常に煌々と灯りをともしていたダラウドには、似つかわしくない部屋に思えた。
ダラウドは、どこにいるのだろう。
背後でドアが閉ざされると、二人きりで、部屋に取り残されたような気がした。ちょうど一時間だけ、時計が遅れたように、似ているけれど、決定的に異なる世界。いつもの電車。いつもの車両に乗ったつもりが、みょうに空いているし、いつも目にする乗客は一人もいない。そんな違和感を覚えた。
少し上ずった声で、霞美が呼んだ。
「閣下」
雨の音が残響を溶かしてもなお、返答はなかった。いま、この部屋では何もかもが、腐り落ちてしまう。音も、光も、気分も、やがて自分たちの体までも、うつろに反響する雨音に溶かされ、腐り落ちてしまうのではないか。
唐突にドアが開いて、二葉の夢想は破られた。
悲鳴を上げるどころではない。人間、あまりにも不条理な局面に遭遇すると、バッテリーの切れたチャペックのように、精神と身体の機能が停止してしまうものだ。そう、ぼんやりと考えながら、目の前の、得体の知れない「人物」を見守っていた。
シェイクスピアの夢幻劇ではあるまいに、かれの首から上は驢馬の頭だった。そのうえ緋色のマントをまとい、踊るような足どりであらわれたのだ。
「喜びなさい。ついにわたしは、王になりましたよ。いえ、いえ、王などという、ケチな身分ではありません。皇帝です。おまえたちも、以降わたしのことを、皇帝陛下と呼ぶように」
内容に劣らず、語調も調子外れであるけれど、ダラウドの声に違いなかった。猛禽類じみた独特の声質を、そう真似できるものではない。いかにも重たげなマントの下に、見え隠れするスーツもまた、いつもかれが身につけているブランドだ。
驢馬の頭は、むろん小人の魔術ではなく、被りものであろう。本物の剥製を用いたとおぼしく、こんなものでも、まともに買えば、家の一、二軒は建つのではないか。いや、そんなことよりも、酒に酔っているのか、あるいは薬物を用いたか。残る一つの可能性については、考えたくもなかった。
驢馬の頭に気をとられて、しばらく気づかなかったが、ようやく二葉の目に、かれが左手で弄んでいる、おぞましい道具が飛び込んできた。驢馬の頭と拳銃。これほど危険な組み合わせは、この世に存在しない気がした。
「陛下は、どこの皇帝でいらっしゃいますか」
霞美が尋ねていた。その落ち着き払った声を聞かなければ、ほとばしる悲鳴を、抑えきれなかったろう。しかし、いったいどういうつもりで訊いたのか。激怒するかと思えば、閣下あらため陛下は、驢馬の頭でほくそ笑んだ。
「愚問ですね。皇帝といえば、ロオマ皇帝に決まっております。申すまでもございませんが、そこは驢馬の帝国なのです」
完全に、イカレている。驢馬の皇帝陛下は、タップダンスでもするように、靴を踏み鳴らし、上機嫌に飛び跳ねている。ただ、どうやら霞美の機転のおかげで、ズドンと一発見舞われる可能性は、遠のいたといえた。胸の前で手を組み、霞美はひざまずいてみせた。
「承知しました。今後は謹んで、ロオマ皇帝陛下とお呼びいたします。ほかに御用はございませんか、陛下」
「ない。おまえたちは、今後も我が帝国のために励むのだぞ。下がってよろしい」
ドアを閉めるとき、背後でダラウドが、ひ、ひいいいんと、嘶く声を、ゾッとする思いで聞いた。薄暗い廊下で、キャンディーは腕を組んで待っていた。例の皮肉も、心なしか、寒々と響いた。
「戴冠式には出席するの?」
翌朝、新東亜ホテル別館、五〇二号室において、グム・ダラウドは死体となって発見された。
他殺死体だった。