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ドアの開く音を聞いた気がして、うたた寝のうたた寝から覚めた。
書きもの机に突っ伏して、おれは眠っていたようだ。部屋の中は薄暗い。カーテンは開いたまま。窓には、この世のものとは思えない夕焼けが映っていた。夢の中の情景を、四角く切りとったように。
さっきの音を最後に、辺りは静まり返っていた。耳を済ませたが、ことりとも音がしない。かすかな人の気配だけが、残像めいて漂っているばかり。ではあのドアの音は、誰かが出て行く音だったのか。
肘が何かに触れて、蒼い光がぱっとともった。旧式のノート型コンピュータのモニターだと知れた。このタイプは相崎博士のお気に入りで、四角い奇形の二枚貝のように、研究所の至る所で口を開けていた。これは今日の昼間、八幡兄妹が置いていったものだ。
ディスプレイには、「BedRoom」および「BathRoom」の文字が左右に並んでいた。右側が、アクティブの状態にあるようだ。
おれは眉をひそめつつ、無意識に耳を澄ました。ときどきカリカリと、コンピュータの内臓ディスクが空咳するばかりで、やはりほかに音はない。もう一度窓のほうを振り向いた。ついさっきと比べても、いっそう紫がかった空を、サーチライトの筋が手さぐりしながら横ぎった。
アマリリスは買い物に出たのか。それとも自室に下がったのか。そもそもおれは、いつ頃から居眠りしていたのか……一向に冴えない意識の中で、「BathRoom」の文字だけが、夕空に血を混ぜたような色で、くっきりと浮かんでいた。
どうもなかなか意識がはっきりしない。ひょっとすると、まだ夢を見ているのかもしれない。夢を見ながら、これは夢じゃないかと疑っている状態。もしそうなら、しめたものだ。夢の中なら、何をしても罪に問われない。例え罪に問われても、目覚めてしまえばチャラになる。両手で札束をつかんでも、やっぱりチャラになるように。
ネズミとかいう、有線の入力装置に手を伸ばした。カーソルが動いて「BathRoom」の上に止まると、文字が血の色に染め上げられた。押せ、と主張しているように見えた。
(夢の中なら、何をしても罪に問われない)
クリックする指が震えた。眩暈のように、画面がぐらりと揺れたかと思うと、背後に強烈な人の気配を感じた。部屋を漂っていた無数の、影のように薄い気配が、急に凝り固まり、一個の人間を捏ね上げたかのように。血の色をした夕焼けを背中から浴びて、そこにはレイチェルが立っていた。
彼女は何も身につけていなかった。
雨に降られたのか、長い髪が海藻のように張りついていた。血の色をした逆光が、華奢でありながら、圧倒的に肉感的なシルエットを描きだしていた。暗い影の中で、肌がしっとりと潤っているのがわかるのだ。黒曜石のように、濡れた眼差しが、じっとおれの視線に重ねられた。
(レイチェル、きみは……)
自分でも、何を言おうとしたのかわからない。いきなりけたたましく鳴り始めた電話のベルが、おれの声を掻き消し、同時に彼女の幻影もまた消失した。うたた寝から覚めたおれは、見事に椅子から転げ落ちた。
「痛え……っ!」
机に這い上がり、重い受話器を持ち上げた。聖歌隊じみたボーイソプラノ。聞き慣れた、いや聞き飽きたワットの声が、ころころと笑っていた。
「どうせ寝ぼけたまま電話をとろうとして、つまづいて転んだとか、そんなところでしょう。よからぬ夢でも見ていましたか?」
「余計なお世話だ。ことさら、あんたみたいな子供には言われたくない」
「子供の忠告も聞けないようでは、大物にはなれませんよ。神様はときどき、少年少女の姿を借りてお出ましになる」
と、少年のくせに抹香くさいことを言う。おれが苛立っていたのは言うまでもなく、こいつのせいで夢を破られたからだ。おれの雇い主で竹本商事の十一歳の社長、竹本ワットは澄んだ声で続けた。
「社に連絡を頂ける時間は、とっくに過ぎてますが」
「あいにく、夢の中で電話をかける特技は持ち合わせてないんでね。そもそもここ二十日以上も、せっせと電話をかけ続けたというのに、一回だって仕事があったか? いい加減うんざりするのが、人情ってもんだろう」
偉そうに言い放ったものの、本当に一日も電話を欠かさなかったか、じつは心もとない。逆に言えば、ワットのほうからかけてきたことが、内々おれを驚かせていた。窓のほうをかえりみると、血のような夕焼けが映っていた。夢の中の光景とあまりにも似ていたので、思わず辺りへ視線をさまよわせた。
むろん、レイチェルの姿はどこにもなかった。ただ、百合の花のような残り香が、うっすらと漂っているばかりで。