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夕食のあと、グム・ダラウドからの呼び出しはなかった。
外は雨が降っているとおぼしく、空調の音に混じって、うつろな反響がホテル全体を覆っていた。
「ドームの中に、雨が降るというのも、ナンセンスな話よね。ダダイストの詩みたいに」
ベッドに寝そべったまま、だれに言うともなしに、二葉はつぶやいた。退屈であるけれど、体の芯は張りつめている。いつ「拘束具」が震えだすとも知れない、この緊張感は、限りなく不快感に近い。ぬるま湯に浸かったまま、冷たい外気に触れたくないばかりに、不承不承浴槽に浸かっているような。
鳥辺野霞美は、かたわらの椅子に腰を落ち着け、静かに茶を飲んでいた。食べかけのポテトチップスの袋を、二葉はベッドの中から突き出した。
「ありがとうございます」
軽い音をたてて、霞美はポテトの破片を前歯で砕いた。育ちのいい娘は、こんな動作にもどこか気品が漂う。
「雨が降らないドームもあるみたいですね」
「当然でしょう。除酸フィルターを設置するくらいなら、べったりと屋根で覆っちゃったほうが、百倍安上がりなんだから」
けれど酸に汚されていても、空から降ってくる真水は、やはり貴重と言えた。わざわざ大気という自然のフィルターにかけられているのだから、屋根の装置くらいで済むのなら、むしろ安上がりと思わねばなるまい。
「それでも人は、雨を必要とするのでしょうか」
「雨を遮断する都市地区では、うちみたいに、通す仕組みのドームに比べて、犯罪率が急増する、というデータがあるんだって。ナンセンスな話よね。雨が降ると、だれもが眉をひそめるくせに、雨音に癒されなければならないなんて。まるで」
「ダダイストの詩ですか」
二葉は肩をすくめて、ポテトの破片を口へ放り込んだ。ダダイストの詩というものを、読んだことはないけれど、今夜みたいな退廃的な気分を、勝手にダダイズム風だと、感じている。
キャンディーとは珍しく、夕方以降、顔を合わせていなかった。雨音に溶かされながら、今夜も、動物愛護団体の喧騒が、伝わってきた。今朝、キャンディーと「散歩した」マンションの跡地。散らかっているどころか、そこだけが掃き清められたように、整然としているのが、かえって奇異に映った。
とくにライオンの銅像は、これでもかというほど、念入りに磨き上げられていた。
「霞美は、ほかの都市地区へ行ったことあるの?」
ふと湧いた疑問を口にした。むろん、都市地区どうしの間には、IBのうろつく汚染地帯が横たわっているから、移動のためのリスクは高い。兄たちの「仕事」にくっついて、二葉は何度も壁を越えているし、廃ドームに入ったことさえある。
けれど、よほどの必要にせまられない限り、「一般人」がドームを出ることは、まずない。ドームから一歩も出ずに、一生を終える者も少なくない。
余談だが、旧首長連合が政権を握った原因は、ドーム間を移動する「シップ」の建造に拠るところが大きい。クーデター時に、人類刷新会議がまっ先に行ったも、シップの破壊もしくは鹵獲だった。彼女の兄たちは、汚染地帯に打ち捨てられたシップの残骸を、何度となく「漁って」いる。
返答がないので、二葉は怪訝な目を向けた。カップの上でうつむいたまま、霞美は心なしか、淋しそうにつぶやいた。
「幼い頃は、別の地区に住んでいました。そこは、雨の降るドームでしたけれど」
沈黙の中、みずからが菓子を齧る音も、どこかうつろに感じられた。霞美の見知らぬ表情に戸惑いを覚えながら、あらためて、彼女の伯父にあたるという、鳥辺野秋嗣のことが思い合わされた。エイジによれば、鳥辺野秋嗣と思われる人物は、「幽霊船」の地下で最期をとげたという。
禁断の人型IBと、まるで心中するかのように。
そうして、霞美は伯父の情報を得るために、金を欲しているのではないかと、当初は二葉も考えていた。けれど、様々な偶然が重なったとはいえ、ここへ乗り込んで来たこと自体、彼女の狙いどおりだったのではあるまいか。必ずしも偶然の結果とは、言えないのではないか。
「ほんと、雨の中、よくやるよね」
話題をかえるために、わざと大声でひとりごちた。雨に鼓舞されるのか、喧騒は昨夜より、ボリュームを増している様子。
口にして初めて、その音を意識から遠ざけようとしている自分に気づいた。不安になるのだ。遠くから意識の中へ、喧騒が割り込んでくるたびに、胸を掻き毟られるような不安を覚えるのだ。なにか不吉な、恐ろしいドラマが始まろうとしている、その前奏曲のように。