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 おれの脳は瞬間的に、女が包丁を構えて突進してくる姿をシミュレートしていた。けれど彼女は振り向きもせず、苦しそうな呼吸を肩で繰り返すばかり。

「ご質問の意味が図りかねますが、奥さま」

「でもね、皆さんそう仰るのよ。とても元気にしておりますのに、失礼ではありませんか。ゆうべなぞ、わたしの指を噛みましたのよ。血が止まらなくなるくらい。ええ、一晩じゅう、血が止まらなくなるくらい」

 だめだ。酒に酔っているのでなければ、考えられる可能性は、一つしか残っていない。これをジョークと受けとれるほど、おれの感性は進化していない。

「ごもっともです。ではさっそく、キッチンを調べさせていただきます。電灯をつけてもよろしいでしょうか」

「電気でしたら、とっくに止められておりますわ。表で、差し止めのカードをご覧になりましたでしょう」

「はあ」

 そういえば、電気メーターにそれらしきものが、ぶら下がっていたようではある。最低限の換気装置は、行政の負担で動いているから、窒息死には至るまいが、あらためて息苦しさを覚える思いがした。

 キッチンは窓に面していないので、泥炭ストーブの紫がかった炎が、唯一の灯りと言えた。腐った生ゴミのにおい。雑然と散らかった物たちが、闇のプールに沈むようだ。いかにもやつらが好んで寄ってきそうな、生活の腐臭……おれは鞄を開けて、ノズルのパーツを取り出した。

「失礼ですが、ご主人はお仕事ですか」

 不躾なのはわかっていたが、黙っているのも不気味だし、どうせ会話など成り立たないのだ。また心のどこかでは、この女と二人きりでいることを、恐れる気もちがはたらいていた。アル中でも何でも構わないから、もっとまともな第三者に立ち会ってほしかった。

 女はおれの質問を、あっさり無視した。

 聞いていなかったのだろうか。耳に届かなかったはずはないので、心ここになかったのか。作業の手を止めず、素足で突っ立ったままの女を盗み見たとたん、いきなりどさりと、くずおれてきた。防ぐ間もなく、剥き出しの腕で、おれの肩にしなだれかかり、痙攣的に身を震わせるのだ。

 廊下に落ちていたゴムボールのような乳房が、ぶるぶると押しつけられた。包丁の先端が、ツナギの背に触れた。

「……なにを?」

「主人はもうどこにもおりません。おりませんのよ。いなくなってしまいましたの。さよならも告げずに、蒸発してしまいましたの」

 相手が男なら、関節技で簡単にねじ伏せるのだが、女には、まるで関節がないかのようだ。それこそクラーケンの蝕腕のような腕を、どうにか振りほどくと、女は床の上に四つん這いになる恰好。そのまま身を起こしたときには、片方の乳房が露出していた。同じ腕の先には、包丁を握りしめたまま。

 ずり落ちかけた眼鏡の裏側で、女はうつろな目を見開いていた。光の加減か、瞳の色素が抜けて見えた。

「駆除を、お願いします」

 どうやら仕事だけは、させてもらえるらしい。おれは業務上のフレンドリーな会話をあきらめ、黙々とノズルの組み立てにかかった。

 こいつは事務所でワットがくれた「新型」で、バーナーと消毒液噴霧器が一体形成になっている。そのぶん、組み立てに時間がかかる嫌いはあるが、ライトまでついてるのは、ありがたい。

 組み立て終えたノズルを、ホースで鞄に繋ぎ、ストラップを引き出して、リュックのように背負った。おれが立ち上がっても、女はぺたんと座ったまま、おどろな髪の下から、うつろな眼差しだけが、こちらへ向けられた。が、これ以上、ぐずぐずしているつもりはなかった。

 おれをきびすを返した。

「どこへ……!?」

 狼狽する女の声を背中で聞きながら、キッチンを出て、もと来た廊下を戻った。すぐ手前の引き戸に、鍵はかかっていなかった。女がいた部屋の隣室。「子供が寝ている」のは、ここに違いない。女は髪を振り乱し、床を這って追いすがった。ばね仕掛けのように、異様な敏捷さで立ち上がると、包丁をふりかざした。

「おやめになってえええええ!」

 軽い当て身を浴びせると、ぐにゃりと肉がくずおれ、そのまま廊下に横たわった。踏み込んだ部屋の中には、プラスチックやセルロイドの玩具が、足の踏み場もないほど散乱していた。天井から吊るされた、安っぽいメリーゴーランドの下に、小児用ベッドが横たわり、小熊の模様の掛け布団が、異様に盛り上がっていた。

 おれはバーナーの出力を全開にし、小刻みに蠢いている、どす黒い染みの浮いた布団に近づいていった。

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