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「おじゃまします」
覚えず鼻と口を覆うと、声がくぐもった。まるで何年も換気していないようだし、実際それに近い状態ではあるまいか。返答はなかったが、構わずに上がりこんだ。
派手なプラスティックの熊手やシャベル。ゴムボールや水鉄砲などが、廊下に散らばっていた。床といわず壁といわず、クレヨンの落書きが、のたくっていた。左手のドアは浴室かトイレらしく、そこを過ぎると、半ば開いた引き戸の隙間から、蒼白い手が手招きしていた。
「こちらへでございます」
正直、一瞬息を呑んだ。幽霊、という言葉が古典的過ぎるのであれば、思念化されたプラズマだと思ったのだ。
広さは八スペースほどだろうか。カーテンが閉めきられたうえ、電灯もともさないので、あくまで暗く、玄関にも増して異様な暖気と臭気が籠もっていた。おれの全身はすでに、じっとりと汗をかいていた。
「失礼します、高木さま。ワーム発生の疑いがあるということで、竹本商事より参りました」
紋切り型の口上を述べる間も、口や鼻から異臭が入り込んで、噎せそうになる。こんなことなら、防護服にガスマスクで身を固めてくるべきだった。
玄関を見た時点で覚悟してはいたが、部屋の中は惨たるもの。昨夜見た、滝沢理論の部屋とは、質を異にする惨状である。同じ散らかった部屋にせよ、理論の部屋には、清潔感があった。引っ越したばかりというのもあるだろうが、生活臭が希薄で、ただ無数のオブジェに囲まれているような感じがした。
けれども、この部屋は腐っていた。化膿した生活のにおいがした。
高木夫人、とおぼしい女は、床に座ってうなだれていた。三十をいくらか超えたくらいか。シュミーズというのかスリップというのか知らないが、肩紐のずり落ちかけた下着を纏ったきりで。流行遅れの細い眼鏡をかけ、おどろに乱れた髪が、肩にべっとりと貼りついていた。
電話での依頼だったようだ。女の声で、ただ高木と名のり、住所が告げられたという。むろん、応対に出た者は、ワームを特定するために、根掘り葉掘り訊くのだが、なかなか要領を得ず、ただ駆除してほしいの一点張り。
それでも発生して一月は放置されているらしい点などから、ゴクツブシかギリクムシのような、さほど害のない、ありふれた種が推定されていた。
突っ立っているのもどうかと思い、おれはそのまま、入り口近くに鞄を置いて、正座した。間の抜けた恰好だが、ほかにどうしようもない。
「さっそく駆除させていただきたいのですが、最も頻繁にワームを見かけるのは、どの辺りですか」
依頼主は顔を上げた。もの思いから、急に呼び覚まされたかのように。眼鏡の奥、顔にふりかかる髪の間からのぞく目は、獣じみた光を帯びていた。やがて女は、無言で腕を伸ばした。この部屋から直接、隣室へ通じるらしい、落書きだらけのドアを指さしていた。
「では、調査させていただきます」
「やめて!」
立ち上がりかけたところを、ほとんど悲鳴に近い、金切り声に制された。何がなんだか、わけがわからない。
こいつはどうも、昨夜の理論をはるかにしのぐ、「アレ」ではなかろうか。さすがにおれも、頭の中にわいたワームは駆除できない。とはいえ、この環境では、虫がわかないほうが不思議なくらいだ。とくに冬場、やつらはより温かい場所を求めて、さまようのだから。
「子供が、寝ているのです。起こしたく、ありませんから。絶対に、起こしたく、ないのです」
疲れ果てたような声で、女は言った。おれは一刻も早く、ここから逃げ出したい一心で、話の接ぎ穂を求めた。
「失礼ですが、ワーム発生の疑いのある部屋に、お子様を寝かせておくのですか。あまり感心できませんね、奥さま」
「では、台所の駆除をお願いします。子供は、起こしたくありませんから」
そう言って、白い影がゆらめくように、女は立ち上がった。後ろに回していたもう片方の手には、包丁が逆手に握られていた。さすがにぎょっとしたものの、料理の最中だったのだと、強いて自分を納得させた。シュミーズ一枚の姿が、果たして料理に適した恰好かどうかは、問わないとして。
先に部屋を出ると、おれは玄関側に退いて道を開けた。包丁をぶら下げたまま、ひどい猫背で、女はふらふらと先に立った。リビングデッド、という言葉を打ち消すのに苦労した。蒼い肌といい、異様な目の光といい、不自然にひねった首といい、それをおもわせる要素には、事欠かなかったが。
「まるで死びとのようだと、お考えでしょう?」
闇がこびりついたキッチンの入り口で、不意に女は立ち止まった。痩せた肩を上下させながら、振り向きもせずに、そう言ったのだ。