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悪書は存在するのか、という問題は昔から論じ続けられている、決して答えの出ない方程式のようなものである。書物が犯罪に影響を与えるのか、所詮、書物なんかなくたって、犯罪は行われるのか。
などと、どうでもいいことを考えながら見れば、アマリリスは一冊の漫画雑誌を、熱心に読み耽っていた。つい「親心」が出て覗きこむと、昨今流行りのホラー漫画らしく、アリスの服を着た、もはや少女とは呼べない女が斧を振り降ろし、今しもハンプティ・ダンプティの脳天を叩き割るところだった。
エプロンが血に染まっていた。
「きみ……それは」
さすがに声をかけてしまったおれを、少女は振り仰いだ。その表情からは、何ら感情らしいものは読みとれなかった。
「面白いかい?」
「わりと楽しいです」
買ってあげざるを得なかった。
もちろんおれは、アマリリスに「給料」をわたしている。人食い私道事件の報酬も、当然の権利として分配していたから、自分で買い物を楽しむくらいできるのだが。なぜか彼女は外出時にも、金を身につけようとしなかった。
車に戻り、もう一度リストを眺めた。近場から潰してゆくのがベストだろう。五分もあれば行けそうな、同じ市街地のマンションに、まず車を回した。
社名の入ったツナギに着替えて、鞄を片手に、管理人にじろじろ見られながら、証言台のような石碑の前に立った。数字の並んだボタンの上に、テレビモニターがあり、故障中の貼り紙が貼られていた。
気にせずに部屋番号を押すと、四〇二の数字が赤くともり、となりのスピーカーから、すぐに声が聞こえた。疲れたような、女の声。
「はい」
「おはようございます。竹本商事です」
「今開けます」
仰々しい音をたてて自動扉が開き、おれは管理人に手を振りながら、それを潜った。管理人は、贔屓の球団が完封負けを食らったような顔をして、そっぽを向いた。
エレベーターは模造大理石のホールに嵌めこまれていた。かたわらの、細長い台座の上から、ライオンの首がおれを睨みつけていた。目の部分だけガラス製なのは、むろん監視カメラのレンズである。
いかにもレオ・グループのマンションらしい趣味のよさだが、深刻な経営不振におちいり、企業の間をたらい回しにされていると聞く。要するに、この巨大なライオンには、首がないのだ。
ゴンドラの中は、腐蝕した金属のにおいが籠もっていた。明らかに、一度は有酸ワームに巣食われた跡だ。巨大マンションの経営が難しくなったのは、ワームの侵入を抑えきれなくなったことも、大きな要因だ。おかげでますます、空洞化に拍車がかかり、さらにワームが棲みやすくなるという、悪循環。
四階でエレベーターを降りると、回廊が中庭を見下ろすかたちで、四角く巡っていた。
玄関はまだ、天下のレオ・グループらしい体裁を保っていたが、ここまで来ると、かなり荒れた印象。回廊には古びた家具やガラクタ、枯れた観葉植物の鉢、エンジンつき自転車などが放り出され、普通に歩くのさえ困難な有様。
「これじゃ、虫が湧かないほうが不思議だぜ」
四〇二号室のインターフォンは半壊していた。スピーカーが割れて機械が露出し、ボタンカバーが外れ、テレビモニターはガムテープで覆われていた。どこかの押し売りが、門前払いを食らった腹いせに、叩き割ったとおぼしい。かろうじてボタンを押すと、チャイムが鳴ったようではある。
四小節くらいの、殺風景なメロディー。この仕事を始めて気づいたのは、インターフォンを押すと、これと同じメロディーの鳴る家が、非常に多いことだ。だれが作曲したとも知れない、とくに心浮き立つわけでもない、どちらかというと暗い旋律が、なぜかくも多くの戸口で、来訪者を待ち構えているのか。
「開いております。お入りください」
無用心な。と思いながら、玄関の戸を引いた。たちまち小児用の遊具に、足をとられそうになった。靴を脱ぐ場所も見当たらないが、とりあえずキリンの自動車や砂だらけのバケツを踏み割らないよう、用心しながら上がり込んだ。
家の中は暗く、噎せそうになるほど、油臭い暖気が籠もっていた。