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もしも徹夜明けのコーヒーが朝食に入らないとしたら、それこそ「朝飯前」の仕事と思われた。
リストには、依頼者の報告から割り出されたワーム名が挙げられているが、一見したところ、第三種以上のやばそうなやつは、一匹も混じっていない。ワットの言い草ではないが、たしかに、処理班にいたおれが出向くまでもない仕事ばかりだ。
ただ、オキシジェン・テントといったっけか、親孝行横丁の映画館に巣食っていたゴクツブシのような、大発生にぶつかるとコトである。日が暮れてからも、ワームの相手をしているようでは、目も当てられない。
夜は夜で、別の仕事が待っているというのに。
雑居ビルを出て振り仰ぐと、シートをかぶった駅舎の屋上から、クレーンの先が、何本もの角のように突き出ていた。規模の違いはともかく、ブリューゲルの「バベルの塔」と似ていなくもない。あの屋上に、ツェッペリンのような飛行船が係留された光景は、さぞ狂気じみているだろう。
「いつもの服装で、来るべきでしたか」
「なぜだい」
「お仕事の、お手伝いをするのですから」
おれは苦笑した。
ワットのやつは、ああ言っていたものの、もとよりアマリリスを働かせるつもりなどない。車の中で、本でも読ませておこうと、考えていた。さすがに「最終兵器」を自由に歩き回らせる勇気は、持ち合わせていないけれど。
ちっとも仕事へ向かう気分になれないまま、駐車場まで少し遠回りして、商店街を歩いた。しばらく見ない間に、ずいぶんさびれた印象。まだ朝早いせいもあるだろうが、シャッターの下りた店だらけ。多くはすでに腐蝕が始まっており、錆に覆われて、チャペックの手でも借りなければ、こじ開けるのも困難だろう。
「こうやって放置するのが、一番よくないんだ」
情けないことに、いつの間にか、害虫屋の頭で考えていた。放置された店舗は民家より気密性が高く、物理的にも行政的にも、他者が入り込み難い。外部から硬く閉ざされ、内に住む者もなく、四六時中闇に蝕まれ続ける。こんな場所こそ、ワームの温床ではないか。
ワームがIBの呼び水となりやすいのは、常識である。
あるとき、落書きと貼り紙だらけのシャッターを突き破って、人間への憎悪に燃える殺戮兵器が、駅前に忽然と飛び出して来ないとは、誰にも言えない。
潰れた店舗の代わりに、ここでもイーズラック人の露店が目立ち始めていた。もっとも、よく見ると瞳の色素の濃い者も混じっているので、このての連中が皆そうだと決めつけるのは、偏見なのだろう。ただし、イーズラック人同様の生活を続けるうちに、色素が落ちてくる者も多くいるのだ。
あるいは、「幽霊船」のマキのような。
道端に並べた雑誌の前で、座ったまま居眠りしているイーズラック人がいた。ひところ、これらの雑誌は「教育上よろしくない」ものが、ほとんどだったが、さすがに刷新の規制が厳しいせいか、露骨な表紙は一掃されていた。それでも、少年漫画をちょっと横にどかせば、従来どおり、おっぱい丸出しの絵や写真が、あらわれる仕掛けだろう。
おれたちの気配に気づいたのか、初老のイーズラック人は目を覚ました。白黒まだらの無精ヒゲ。顔に刻まれた皺の中まで、日に焼けているようだった。
「ザー・ラ・ドベルカ。何かお探しで?」
「まさかとは思うが、童話なんか売ってないだろうね」
男はおれたちを見上げ、小さな目を、不思議そうにしばたたかせた。なるほど、いきなり変なことを言ったものだから、暗号とかん違いしているのかもしれない。当然といおうか、かれらの中には、スパイを副業としている者が多くいた。
スパイといっても、多くの場合、かれら自身が政治的イデオロギーを持つわけではない。暗号を記憶し、次に伝えるだけの「簡単な」仕事を、請け負っているだけである。
「いや、おれはただの冷やかしだよ。組織の者じゃない」
「ちょっと見てもいいですか」
言い訳している隣で、アマリリスが興味津々、おれの袖を引いた。そういえば、おれの知る限り、彼女はまだ一度も漫画を読んでいないはずだ。瞬時、「教育上」という言葉が脳裏をかすめたが、思いなおして許可を与えた。