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事務室を出ると、薄暗い廊下にキャンディーがたたずんでいた。腕を軽く組み、壁にもたれ、意味ありげな笑みを浮べて。
「散歩しない?」
やはり監視されているのだろうと、二葉は思う。それにこの女は、どこまでも得体が知れない。協力者なのか、密告者なのか。亜門の犬か、個人主義者か、それとも、もっと別の何かに属しているのか。
「あなたも暇な人ね、キャンディーさん」
「心外だわ。これも業務の一環なんだから。朝食、まだなんでしょう?」
何のことはない。点検と朝飯に、付き合わされるだけらしい。
昨日の夕食は「メイド部屋」で済ませたので、別館の「社員食堂」を使うのは初めて。メイドやボーイたちでごった返す本館と異なり、人影もまばらで殺風景な印象。それを補うつもりか、壁に、版画が何枚かかけられているが、近づいてみれば、ゴヤの「ロス・カプリチョス」より、「彼女たちはもう席を得た」。二葉は眉をひそめた。
「悪趣味」
もちろんセルフサービスで、カウンターの向こうには、国内随一のシェフの代わりに、古めかしいチャペックが一体、うずくまっていた。これまた古めかしい食券を、キャンディーが差し出すと、チャペックは指先でバーコードを読みとり、頭部センサーを明滅させた。愛嬌のつもりらしいが、目を白黒させているようにしか見えなかった。
「オハヨ、オオ、ゴザイマ、ス。ミス・イクタアア」
「おやよう、ミスター・ハンプティー。今朝のお勧めはなに?」
「トマ、トスライスツ、キ、ベ、エエコンエッグ、デス。クロワサッ、ワッサン、ト、コーヒー、デ、ドウゾ」
ほかに選択肢があるのかと疑うばかりだが、あえて突っ込まなかった。ただ、
「紅茶にしてもらえる?」
横からそう言うと、軍の払い下げ品にエプロンを巻きつけてごまかしたような、いかついチャペックは、また目を白黒させた。
「ア、イニク、コオオオチャ、ハ、キラシテ、オ、リマシテ」
やはり、選択肢なんかないらしい。
二葉は溜め息をついてトレーを受けとったが、たしかに内容はルームサービス顔負けである。ここも半地下なので、窓はひとつもない。だいたいホテルの裏方たちは、窓のない空間を移動しながら、一日を過ごすものだが。別館ではなおさら、その印象が強かった。
柱の近くに座を占めると、壁際に水槽が、ぽつんと置かれていることに気づいた。四十センチ幅くらいの小さな水槽だが、パブリックスペースで見かけるもの同様、必要以上に管理が行き届いており、水苔ひとつ見当たらない。行き交うネオンテトラを街で買えば、一匹五千サークルはとられるだろう。
霞美も金が必要なら、ホテルじゅうの水槽から少しずつ魚を抜きとり、闇マーケットに流したようが、手っ取り早いのではあるまいか。そう考えたが、キャンディーの手前、黙っていた。
「朝のミーティングはないのですか」
クロワッサンをちぎりながら、真面目な霞美が訊いた。けれどその疑問は、二葉も感じていたことだ。
あくまで英国式の本館では、朝のミーティングで一日が始まる。まず総支配人以下、上級幹部たちが一室に勢揃いし、次にかれらが各部署へ散って訓示をたれる。
メイドたちのボスは、もちろんメイド長こと、エグゼクティブ・ハウスキーパーの五十嵐冬美だが、本館では彼女のオフィスに各階のフロア長が集まり、さらにメイド達へ注意事項が伝えられる。だからさっき、亜門の部屋で冬美の姿を見かけたときは、いったい体がいくつあるのだろうと疑った。
いずれにせよ、あの様子を見る限り、別館では軍隊式の朝礼は行われていないようだ。キャンディーこと、「ミス」生田は言う。
「略式でやってるんでしょう」
「人ごとみたいに言うのね」
「わたしたち、住み込み組は特例がまかりとおるから」
「そのかわり、厄介な客を担当させられるというわけ?」
トマトスライスつきベーコンエッグをナイフで器用に切り分けながら、キャンディーはくすりと肩をすくめた。缶詰以外のトマトを食べたのは、二葉も久しぶりだし、実際にはだれが作ってるにせよ、いかにも一流シェフの味がした。霞美がたずねた。
「そういえば、わたしたちは本来、ダラウド閣下ではなく、七階のお客さまにつけるために、採用されたのですよね。いったいどんなかたなのですか?」