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別館のどこからかけても、無線電話の感度はひどりありさま。二葉が所有するのは、兄が改造した強力なシロモノであるにもかかわらず、なかなか電波が届かなかった。
「ふぅん、カレシに電話?」
一階の、薄暗い廊下の片隅に、かろうじて通話できる場所を見つけたが、まるでわざと電波障害を起こさせているように、安定しない。この事実は有無を言わさず、人食い私道を思い起こさせた。
キャンディーこと生田累が、いつの間に背後に潜んでいたのか、わからない。カレシ、などという死後を使っている、実年齢同様に。
「うひゃあ」
腰を両手でつかまれて、変な声が洩れた。彼女の指先は、あやしげなツボを確実にとらえていた。
さいわい、昨夜の呼び出しは、一度きりで済んだ。グム・ダラウドは朝寝坊らしく、かれが呼び出すまで入室は厳禁。へたに入ろうものなら、どれほど音を忍ばせても、ノブを回しただけで、血相を変えて飛び出してくるのは確実だという。おかげで彼女も、エイジと無駄話をする余裕ができたのだ。
「盗み聞きしてたの?」
「まさか。よく電話が繋がったものだって、感心しているだけよ」
返す言葉に詰まった。「合法的な」無線電話なら、繋がるはずがないのだ。キャンディーは片目を閉じて、皮肉をたたみかける。
「愛の一念かしら」
メイド部屋に戻ると、隣のベッドの上段から、赤間恵理子の姿が消えていた。けっきょく二葉は、彼女の全貌を、まだ一度も見ていないのである。量子物理学の猫のように、得体の知れない女だ。鳥辺野霞美は、まだ安らかに眠っていた。
「何の悩みもなさそうな寝顔ね」
梯子段から、人さし指で頬をつつくと、数秒後にようやく目を開けた。起動に時間のかかる、旧式のチャペックをおもわせた。
「あ、おはようございます。二葉さんがなぜいるんだろうって、一瞬考えちゃいました。夢の中じゃなくて、ここ、ホテルなんですよね」
「そろそろ起きたほうが、身のためだと思うけど」
最初に彼女たちを呼び出したのは、予期に反して「閣下」ではなく、夜間支配人こと、亜門真だった。まだどこか寝ぼけ眼のまま、エプロンのリボン結びを、逆さにしたりしている霞美を促して、亜門のオフィスへ急いだ。「専属メイド」は今朝も姿を見せず、かれと、メイド長こと五十嵐冬美が待っていた。
「やっていけそうですか?」
開口一番、にこやかにそう言われ、二葉は脱力しそうな虚無感に見舞われた。
亜門は事務椅子の上で足を組み、やや傷みかけた、一輪の薔薇を弄んでいた。今朝はノーネクタイに赤いシャツを着ているし、ほかの男がやれば鼻もちならない仕ぐさだが、みょうに絵になる。相変わらず「メイド長」は、かれの横でしゃちこばっていた。
「なんともコメントできません。三日経ってみなければ」
オペラ歌手のような美声で、亜門は笑う。隣で五十嵐冬美の頬が、ぴくりと引きつるのがわかった。
「よい心がけです。新人のあなたがたが、一日で逃げ出さなかっただけでも、わたしはおおいに評価していますよ。ところで、生田くんから聞きましたが、ダラウド閣下は、浴室でワームをご覧になったとか」
次は二葉の頬が引きつる番だった。キャンディーが「お目付け役」なのは、わかりきっていたし、虫の件をご注進に及ぶのも当然なのだが、あえて亜門の口から切り出されると、やはり不気味なものを感じた。
「はい。その件に関しては、お客さまみずから、支配人に報告すると聞いておりましたが」
「報告は、なかったようですよ。もっとも、上に告げるぞというのは、閣下の常套句のひとつでして、まあ、いかにも小人物らしい、弱い者いじめですね」
「はあ」
別館のボスがメイドの前で、お客を小人物扱いしてよいものか。またもやメイド長の頬が震えたが、ダラウドが「小人」であるという観察は、二葉と一致していた。器の小さな人間に限って、立場の弱い人間をなぶるのが大好きである。