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思わず受話器を落としかけた。監視カメラなら、とっくの昔に仕掛けてある。それもリビングと、
浴室に。
「もしもし、エイジさん? 聞いていますか」
「ああ、わかってる、つもりだ。とにかく、行けばいいんだろう」
上の空で、受話器を置いた。振り返ると、机の上でノート型コンピューターが、きちんと片隅に寄せられ、蓋が閉じられていた。地味なスーツ越しにわかる、理論、というより逆説的なおっぱいの膨らみが、無機質な箱にオーバーラップされた。
「これから、お仕事ですか」
なかば無意識に、ブラジャーのホックならぬ蓋のロックを外したところで、後ろから声をかけられた。戯画的に振り返ると、着替えを終えたアマリリスが、おれの手元に、じっと目を注いでいた。
「い、いや。予定どおり、すぐに出かけるよ。ただ途中、事務所に寄らなくちゃいけなくなったが、いいかい?」
「承知しました」
車で向かう途中、映画館の前の人だかりに、何度か道をはばまれた。考えてみれば、テレビジョンが映らなくなって久しい。どうやら、数日ぶんのトピックをまとめて安価で上映する、ニュース映画が流行っているらしい。武装警官が踏み込まないところを見れば、電波に乗せなければ合法になるのだろう。
あやしげな小新聞や、パンフレットの類いも、かなりの数が出回っていた。言論統制を受けやすく、感傷的な説教だらけの大新聞より、たしかにそれらは面白かった。真偽のほどが定かでない情報の中には、明らかに当局の秘密のデータをリークした記事が、混じっていたりした。
IBに「食われた」都市地区の報道など、まず大新聞では読めない。
駅では改装工事が始まっており、すっぽりとシートで覆われていた。ドリルの音が響く通路には、けれど相変わらず、イーズラック人が居座っていた。いつか重炉心弾を売ってくれた男を探すのだが、やはりどこにも見当たらない。とっくにパクられた後かもしれない。
「鉄道再生機構は、そんなに潤っているのかね。たいして需要もない駅を、いじくり回す金があるんだ」
独り言みたいに吐き捨てると、近くの柱に寄りかかっていた若僧が、体を揺すりながら寄ってきた。
「飛行船を飛ばすって話ですぜ、旦那」
イーズラック人ではない。
黒い髪を脂で固めて、針のように立てている。肥った体を、赤いハーフコートで包み、幅一センチ未満の細いサングラスをかけている。両手をポケットに入れ、始終体を揺すりながら、くちゃくちゃと噛んでいるのは、ガムではなかろう。どうせ麻薬成分を含んだ、脱法香辛料か何かだ。おれは溜め息を洩らした。
「ツェッペリンとか、あの類いの? マンモスとともに滅びたと、思っていたんだがな」
「うへっ。ツェッペリンとは、旦那もマニアックだねえ。まあでも、そういった大昔の遺物が、今頃になって見直されてるらしいんですねえ」
「いや、たしか飛行船なら、第二次百年戦争で、一度復活してるはずだ。空中の砲台としては有効だからね。そこそこに実績をあげたようだが、それも浮遊型IBがあらわれるまでの話さ。現在だって、そんなものを優雅に飛ばせば、たちまちやつらに食われちまう」
「まあそうなんですがね。ドームの中で浮かべるぶんには、間違いは起こらないだろうって、鉄道さんは睨んでるわけですわ。地上はパンク状態。地下は文字どおりの地獄。となると、あとは空しか残っていませんや。飛行機じゃちと速すぎますが、飛行船なら広告塔代わりになる。そっちの収入も当て込んでるようですぜ」
笑うと脂肪が、だぶだぶと揺れた。見苦しいが、愛嬌がある。若僧はさっきから、あるかなきかの目をサングラスの上でしばたたかせ、アマリリスに秋波を送っていた。
「ところで旦那、この子は娘さんですか」
「娘に見えるか」
「いやあ。普通なら、親父か兄貴がくだらない立ち話をしていると、スネたりするもんじゃないですか。ところがこの子は、退屈のタの字も顔に出しませんや。それに、へへへ、ものすごく可愛い」
「なるほどね。あんた、そういう趣味なのかい」
「へへへ、お恥ずかしながら。まあ最近はいろいろうるさくて、都合がつきませんからね。もし旦那の都合が合えば、譲ってもらえねえかなと思って、へへへ」
「やめておいたほうが身のためだ。この子は、空手の達人だぜ」
うへっ、と首を縮めた若僧に手を振って、人ごみに紛れた。きょとんとした顔で、アマリリスが尋ねた。
「マスター、わたしにはカラテという単語が、登録されていないようです」