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「で、虫の話はどうなったんだ」
尋ねると、ノイズだらけの受話器の向こうで、二葉が口ごもるのがわかった。
「すっかり忘れてたわ。そうなのよね。それで昨夜、わたしたちは呼ばれたわけだし、電話したのも、それが訊きたかったからなのよね」
「要領を得ないな」
「もともと要領を得ない話なんだから、仕方ないじゃない。わたしたち、虫の件で呼ばれたのに、いつの間にか、動物愛護団体に命を狙われているだの、やつらはテロリストだのと」
「刺客として、ワームを送りつけたってことだろう。妄想かどうかは置いておくとしても」
「そう考えざるを得ないわね。でも侵入経路が見当たらないのよ。キャンデ……、いえ、先輩のメイドに尋ねても、チェックイン以来、ダラウドが外部から、何らかの荷物を受け取った形跡は、まったくないというのね」
おれは溜め息をもらした。これから出かけようというタイミングでかかってきた、お転婆娘からの電話。しかもどこか、おれ自身の体験とシンクロしているところが、不気味である。
「その気になれば、外部からワームを持ち込む方法なんて、いくらでもあるだろう」
「どうかしら。本館なら、フロントにせよ休憩室にせよレストランにせよ、宿泊客以外の人間が、頻繁に出入りするスペースがあるけど、別館には皆無。治外法権の例えも、まんざら洒落では済まされないわね。政治犯の国内亡命だって、あそこなら可能だわ」
「外部から持ち込まれてないのであれば」
「内部の人間の仕わざ、か……でもここで話がループするんだな。どこまでがダラウドの妄想かという、出発点に戻っちゃうわけよ」
「まるで赤のキングだな」
童話のことが、頭の隅にあったのだろう。覚えずそうつぶやいたが、問い返されるかと思えば、二葉はすんなり応じたものだ。
「そうね。わたしたち、ひたすらダラウドの悪夢に、振り回されてるみたい」
「ところで、その、動物愛護団体のテロリストといのは、何だ」
次にサイレント・スプリングの名が、二葉の口から飛び出すのを、おれはなかば予期していた。だとすると、そのダラウドとかいうイヤミな野郎は、ナノグ社の関係者か。
デノア派の幹部というからには、無関係ではあり得ないが。それにしても、理論、と名のる隣の女が、ナノグ社の報復を恐れる一方で、新東亜ホテル別館の一室では、ツァラトゥストラ教団のエリートが、団体のデモに怯えている。この鏡像じみた構図は何なのだ?
鏡の向こう側にいるのは、二葉か? それとも、おれなのか。
「でも、もしあそこに赤のキングがいるとすれば、それはダラウドではないわ。器が小さすぎるし、だいいちあの男に、プラズマの幽霊は作り出せないでしょう。サイキックには、とても見えないものね」
彼女の話を、上の空で聞いていた。何か重要なこと、訊かなければならない、一つの事柄があるような気がしたが、逆に尋ねるべきことが多すぎて、言葉を失くしてしまう。するうちに、もう時間だからと言い、二葉はそそくさと電話を切った。鉄アレイのように感じる受話器を置くと、再びベルが鳴りはじめた。
「エイジさん、朝食はお済みですか」
ボーイソプラノが、いつもの嘲笑うような口調で尋ねた。たった今、かけたわけではあるまい。ずっと話し中だったのだから、わかりそうなものだ。
「徹夜の後のコーヒーを、朝食と呼べるなら」
「それはよかった。ご足労ですが、これから事務所へ寄ってもらえませんか。大至急、とは申しませんが、至急くらいで」
「おいおい、ボディーガードの仕事を押しつけたのは、いったいだれなんだ。お客さんを放ったらかしにして、出て来いというのか」
お客さんを放ったらかしにして、出かけようとしていたくせに、我ながらよく言う。平然と、ワットは断言した。
「滝沢理論さまなら、昼間は起きられません」
「ふざけてる。吸血鬼じゃあるまいし、留守中、ヘルシング教授に杭を打ち込まれても、おれは責任持てないぜ」
「ご心配には及びません。すべてエイジさん一人に押しつけるつもりはございませんので、我が社のほうでサポートいたします」
「ふん。監視カメラでもつけて……」