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「お言葉ですが、閣下。最も害の少ないゴクツブシでさえ、駆除するには、専門の知識と道具が必要です」
「このホテルには、二つとも備えられていないのですか」
「それは……」
二の句が継げなかった。そもそもワームが出た時点で「終わり」なのだから、備えなどあるはずがない。どこかのホテルへ、稀にエイジも出向いていたが、客に発見される前に、従業員が見つけたケースでなければ、廃業後の後始末なのである。
「とりあえず、見せていただけますか。それとも、すぐに夜間支配人を呼んだほうがよろしいですか」
霞美が言っていた。毅然とした態度。選択肢を二つ提出しているところなども、巧みである。ダラウドの眉間に、苦悶するような皺が刻まれた。
「よろしい。ついて来なさい」
二人が案内されたのは、浴室だった。トレイとは別になっており、一人で使うには充分すぎる空間は、数時間前、隅々まで舐めるように拭わされた場所だ。
灯りは最初から、ともされたまま。蛇口から間断なく落ちる水が、浴槽から溢れ、床の排水口に渦を巻いて吸われてゆく。あと三十分放っておけば、階下に水が洩れるのは必至だ。
「靴のままで構いません」
ダラウドらしからぬ配慮に驚きつつ、水浸しのタイルを踏んだ。見わたした限りでは、異常はない。もの陰はないので、残るは浴槽ばかり。ダラウドに目を遣れば、そうだと視線で肯定する。さっそく無頓着に覗きこもうとした霞美の肩を、彼女はつかんだ。
「気をつけて。『目なし』だったら厄介よ」
ブラインドワームとも呼ばれる、最近巷を騒がせている、吸血ワームだ。
全長一メートル二、三十センチ。直径十センチ足らずの細長い円柱に、尾鰭だけつけた姿をしており、目鼻がなく、代わりに全身から短い鞭状の感覚器官を生やしている。半水棲で、排水口を伝ってトイレや浴室に入り込み、人が近づくと、その姿態からは想像できない素早さで絡みつき、吸血する。
合成樹脂の質はいいが、いかにも無機質な青い浴槽。身構えつつ覗き込んだが、波紋が電灯を反射して、沈んでいるものの形は、定かでない。
「水をお止めしてもよろしいですか」
勝手にしろというふうにダラウドは片手を上げ、霞美が蛇口をひねった。ひとしきり水が溢れたあと、静まった浴槽の中には、何も確認できなかった。水滴の落ちる音が、うつろにこだまを返した。二葉と霞美は顔を見合わせ、それから「閣下」へ当惑の目を向けた。
ダラウドは、忌々しげに唇をゆがめた。
「逃げてしまったようですね。あなたたちが、つべこべ言い訳している間に」
「どんなワームだったのですか」
「なぜ、そんなことを教えなくちゃいけないのです? わたしがいたと言っているのだから、それで充分ではありませんか」
妄想ではないのか。と、咽まで出かかった言葉を、二葉はさすがに呑みこんだ。あるいは、プラズマの幽霊か。それが客室に出るという例は、不思議とほとんど聞かないが、さっき、半開きの扉から、「蛾の幽霊」が出て行くのを見たし、あり得ない話ではない。
「どういたしましょう。逃げたとすれば、ほかに心当たりがございますか」
二葉としては、一刻も早く撤収したいところなのに、忍耐強く、霞美がそう訊くのだ。また「ぎゃんぎゃん」わめき散らすかと思いきや、
「出ましょうか」
つぶやいたダラウドの顔に、心なしか濃い疲労の陰が浮いた。
なすすべもなく後に従うと、かれはリビングに戻り、深々とソファにもたれた。霞美に命じて黒い小ケースを受け取り、葉巻を取り出したが、指先で玩ぶばかり。こんな場合、メイドが決して火を提供してはならないと、キャンディーに教えられていた。
「このホテルならと、期待したんですがね。あのばか者どもから、わたしをかくまってくれることを」
唐突に言い出すのだが、独り言なのか、話題を振っているのか。皮肉にしても、最前の迫力を失っていた。判断に苦しむ二葉の隣で、何の屈託もなく、霞美が尋ねた。
「追われていらっしゃるのですか」
「ええ、命を狙われているんですよ。あのサイレント・スプリングとかいう、気狂いどもにね」