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薄暗い廊下を、「蛾の幽霊」が舞っていた。
両手で杖にもたれ、古めかしいハットを被り、満面の笑みを浮べてただずむ、初老の男を見た。どの部屋から洩れるとも知れない、出しっぱなしのシャワーの音が、うつろに反響していた。まるでデ・キリコの絵にあらわれるような、影だけの少女が壁を横ぎった。
「二葉さん……」
「気にしないで。何もかも、夜になると現れる幻なんだから」
とはいうものの、二葉とて、この時間に一人歩きさせられてはたまらない。霞美にも同じものが見えているという事実が、ずいぶん救いになっている。少なくとも、自分の頭だけがおかしくなったのではない証拠になる。
五〇二号室の扉は、少し開いていた。「プラズマの」蛾が数匹、そこからふらふらと飛び出して、廊下の奥の闇に消えた。
彼女は霞美と顔を見合わせた。あの神経質なダラウドが、部屋の戸を半開きにするなんて、まず考えられない話だ。
耳を澄ませると、水の音が聞こえた。幻聴ではなく、明らかにこの部屋の浴室で、水が出しっぱなしになっている。モーターの震動をおもわせるノイズの底から、遠くの喧騒が聞こえてきた。サイレント・スプリングは、まだ外で騒いでいるらしい。
二葉がノックして、取っ手に手をかけた。少し開くと、消毒液らしい、塩素のにおいが鼻をつき、あやうく噎せそうになるところ。
「失礼します。お呼びでしょうか」
部屋の中では、煌々とともる灯りが、消毒液の霧にかすんで見えた。じつは、最も忌まわしい場面が、頭の隅にこびりついて離れなかったのだが、ダラウドは相変わらず隙のないスーツ姿で、リビングの中央に突っ立っていた。
蝋のように、蒼ざめた顔。瞬時ではあるが、目が飛び出しそうなほど見開かれていた。
「遅かったですね。あと二十秒、速く来るべきです」
「申し訳ございません、閣下。ご用をうけたまわります」
ダラウドは二人を一瞥しただけで、視線は落ち着きなく、部屋の中をさまよった。風の加減か、時おり外の騒音が入りこむと、世にも不快そうな表情を露わにした。浴室の水の音は、止むことがなかった。吐き捨てるように、ダラウドは言う。
「部屋の中に、虫がいるようです」
無意識に、また二人は顔を見合わせた。この客のことだから、ミニサイズのゴキブリ一匹で、騒ぎたてても不思議はない。あるいは、さっき目にした、「蛾の幽霊」のことを言っているのだろうか。おそるおそる、二葉が尋ねた。
「虫、と仰いますと?」
「変異体に決まってるでしょう! 高い料金をふんだくっておきながら、なんという杜撰な管理でしょう!」
怪鳥じみた金切り声が響きわたった。IBのことをそう呼ぶ者もいるが、この場合「変異体」といえば、ワームを指すに違いない。
ほかの場所ならともかくも、ホテルにおいては、ある意味IBの侵入より、あり得ない状況と言えた。客室のみならず、フロアのトイレであれ、普段ひと気のない階段であれ、一度でも客にワームを見られたら、どんな場末のボロ宿であれ、ホテルと名のつく以上は、ジ・エンドである。
いわんや、世界に名だたる新東亜ホテルにおいてをや。
「あの、閣下。失礼ですが、何かの見間違いではございませんか」
また降り注ぐであろう金切り声を身構えて待ったが、ダラウドは紫に変色した唇を、ぶるぶると震わせたばかり。次に口を開いたときは、意想外に落ち着いていた。低いトーンの声が、かえって、まがまがしい響きを帯びた。
「あなたたちメイドを相手にしても、埒が明きません。この件に関しては、総支配人ときっちりお話しさせていただきます。あなたたちを呼んだのは、さっそく虫を駆除してほしいからです」
桑原は別館にノータッチなので、かれの言う「総支配人」とは、亜門を指すのだろう。いやそんなことよりも、同じ「虫」でも、ワームとただの害虫とでは、ニュアンスがまったく違ってくる。ゴクツブシもワームなら、IBに匹敵する多脚ワームだって、その一種なのだから。
とてもメイドの仕事とは思えない。それこそ、エイジをここに呼びつけたいくらいだ。