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それから何を話したか、よく覚えていない。
いつ受話器を置いたのかさえわからないまま、電灯を消したところで、ようやく我に返った。とっくに夜が明けたらしく、カーテン越しに、白い光が入りこんでいた。おれは寝室へ向かう気も失せたまま、ソファにうずくまると、夢とうつつの間を、しばらくさまよった。
キュノポリス……
それについて、ワットが何か説明したようだが、頭の中で反芻することができない。とても現実とは思えない、言語道断な妄想と入り混じる。ずきずきする頭の中で、ルナパークの木馬のように、狂気じみたワルツにのって回るのだ。
街灯が笑い、壁が話しかけ、ドアが手を差し伸べる。そんな街があったら、狂人の妄想以外の何ものでもあるまい。いや、必ず妄想でなければならない。
(当たらずとも遠からずだと?)
時計仕掛けの木馬は回る。回る。無数の顔が浮かんだ、鋼鉄の壁に囲まれて。
ぶううううーーーーんんん。
「申し訳ございません。起こしてしまいましたか」
間近で覗きこむ、少女の顔があった。掃除機のスイッチを止めた姿勢のまま、いかにも心配そうな表情で。
「この音量で目を覚まされる確率は、十三パーセントほどでしたので、だいじょうぶかと思ったのですが。申し訳ございませんでした」
「いや、謝る必要はないよ。こんな所で寝ているほうが、おかしいんだから。掃除を続けたらいい」
「すぐに朝食のご用意ができますが」
「ありがとう。とりあえず、コーヒーだけもらおうか」
掃除機をかたわらに寄せ、リボンを揺らして台所へ向かう少女を見送りながら、廊下に落ちていた培養液のことが脳裏をかすめた。八幡ブラザースがしっかりメンテナンスしてくれるから、日頃あまり意識せずに済ませているが、アマリリスは、あの特殊な培養液なしでは生きられない。
人間が睡眠を必要とするように、彼女は培養液のベッドで眠る必要がある。さもないと、人工細胞の代謝が促進されないからだ。人体を構成する分子は、一年ですっかり入れ替わるとか。この死と再生のドラマが、生命体とそうでないものを分けている要素なのだろう。
アマリリスは機械である。けれど、彼女は生きている。それが人間のエゴによって、無理やり付与された生命であるとしても。
「厄介な仕事を押し付けられた。隣人のボディーガードだそうな」
寝不足気味の脳細胞に、コーヒーが染み入るようだった。何気なく観察していたが、少女は盆を抱いて立ったまま、そうですかと応えたばかり。相変わらずの無表情からは、昨夜の行動の真意を、読むことができない。なかば独り言めかして、おれは語を継いだ。
「じつにイカレた女だよ。サイレント・スプリングとかいう、動物愛護団体の幹部らしいが、ツァラトゥストラ教系の企業、ナノグ社に命を狙われている、と、思い込んでいるんだ」
「イカレているのですか」
「被害妄想だと思うし、そうであってほしいね。現に、とうとう一晩つきあわされたけど、何も起こりはしなかった」
「何も?」
「パンツァーファウストを小脇にかかえたピエロメイクの男が、窓を割って飛び込んでくるとかさ。だけど、もし妄想でなければ……」
言葉とともに飲みこんだコーヒーが、やけに苦く感じられた。妄想「でなければならない」事柄が多すぎる。けれども、それらは着実に、夢とうつつの境を越えて、正常だとか正気だとか信じている領域に、侵入しようとしている。広大な汚染地帯から、ちっぽけな都市地区への侵入をこころみる、IBのように。
アマリリスは、先を促さなかった。何かを決意するように、首を縦に振っただけで。「いざという時」は彼女を使うよう、ワットから指示されていた。おれを「幽霊船」へ導いたのと同じ引力が、またしてもはたらいているのを感じる。第二の「幽霊船」がどこなのか、まだわからないけれど。
ただおれは、アマリリスをアリーシャの二の舞には、したくなかった。
「掃除が終わったら、買い物に出かけよう」
「お仕事のほうは?」
「ボディーガードは引き受けたが、奴隷になると言っちゃいない。それに、きみの本も買いたいからね」
ほんの一瞬であったし、笑顔からは程遠かったけれど、それでも心なしか少女は、嬉しそうな顔をみせた。