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理論、の部屋から、ようやくねぐらに戻ったのは、明け方近く。ひどい頭痛の原因が、精神的なものであることは明白だった。
まるで、朝帰りをとがめるカミさんを恐れるように、ドアをそっと開けた。居間の再生LEDを点けっぱなしで出たので、磨りガラス越しに灯りが洩れていた。耳を澄ましたが、アマリリスが起きている気配はない。
幾分ホッとして、後ろ手にドアを閉めた。靴を脱いだところで、それに気づいた。床の合板の上に、不可思議なツヤがある。まるでそこだけ、ワックスを拭き忘れたような。
(これは?)
おれはしゃがみ込んだ。指先ですくい、鼻に近づけてみると、たちまち正体が判明した。どこか人工的な花をおもわせる、培養液のにおい。
裸身のアマリリスが、ここにたたずんでいる姿が浮かんだ。培養液で濡れた髪。指先からも、雫をしたたらせながら。
もし「何か」あれば、いつでも飛び出すつもりで。
居間はもちろん空っぽだった。早すぎるのはわかっていたが、受話器を持ち上げずにはいられなかった。呼び出し音を三回聞いたあと、意外にも回線がつながった。
「おはようございます。かけてこられる頃だと、思っておりました」
澄んだボーイソプラノ。冷静でよどみのない口調が、かえって忌々しく響いた。
「おれは仕事を引き受けるなんて、一言も言ってないぞ。一言も、だ」
「そうでしょうね。ぼくも聞いておりません」
「ふざけるな。脅迫神経症の治療なら、ボディーガードじゃなく、医者を呼べと言いたい。要するに、おれの手に余るってこった。仕事を降ろしてくれ」
「交代要員がおりません。なぜなら、お客さま直々のご指名なのですから」
怒鳴りつけてやりたいのに、返す言葉が見つからず、おれは歯ぎしりした。冷静さを失えば失うほど、こいつの手玉にとられるだけだ。わかってはいるのだが、どうしても癪にさわる。おれは電光石火のごとく、煙草に火をつけた。
「その『お客さま』のフルネームを教えてくれ」
「滝沢理論さまです」
「ふざけている。ウラはとれているのか」
「それがなかなか。刷新の住基ファイルの中でも、鍵つきの引き出しに放りこまれておりまして。共立ドーム図書館を例にとりますと、地下の禁書コーナーにあたりましょうか」
「やけにもったいぶるな」
たて続けに煙を吐き、三分の一を灰にした。あの話しぶりからして、きっちり調べてあるに違いない。情報にハクをつけたいがために、出し惜しみするのだ。そういう野郎なのだ。
「滝沢理論。父親の名は、滝沢繁樹。もと竜門寺家私設軍団の少佐でした」
「軍人か。さっそくキナ臭いネタが転がり出たな」
「いえ、滝沢繁樹が配属されていたのは、軍団の航空審査部です。軍人の階級を持ちますが、実質、技術者と言えましょう」
「聞いたこともない。竜門寺は、役にも立たないヒコーキの製作に、熱を上げていたのか」
「あなたらしくもありませんね、エイジさん。もし砂漠の真ん中に、造船所ができたとしたら、どうお考えになりますか」
「明らかに、ダミーだよ」
「そのとおりです。竜門寺もまた、航空機を作る意志などまったくなかったと考えられます。それなのに施設は存在した。中で何が行われてたと思います?」
考えたくもなかった。なんだってワットの野郎は、このくそ頭が痛い時に、くそ頭の痛い話をしやがるのだろう。
それも、とんでもなくヤバイ話を。
「さあな。三文小説家なら、禁断の人体実験が行われていたとでも、書くだろうが」
「当たらずとも遠からずですね」
さっきから感じていた、わけのわからない寒気が、一気に倍増した。震える手の中で、相変わらずいやになるほど冷静なボーイソプラノが、こう尋ねた。
「キュノポリス計画をご存知ですか」