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感想を述べそこねたが、コーヒーは旨かった。むろん、アマリリスほど「完璧」ではないけれど、そこはご愛嬌であろう。少々濃すぎるところが、むしろおれの好みに適っていた。
理論、という奇妙な名の女は、おれの当惑を楽しむかのように、みずからもカップを傾けた。ちなみに二つのカップは、材質も大きさもてんでばらばら。おれの金属製のマグに至っては、どこぞの貧乏ゲリラの払い下げ品みたく、ぼこぼこにへこんでいた。
「毒を盛るつもりは、ありませんから」
「飲んだあとに言わないでくれ」
「エイジさんのご職業を、うかがってもよろしいかしら」
三文小説家だ、と嘘をつくのも面倒なので、真実を簡単に説明した。理論は眉をひそめた。虫、というだけで、たいていの女は眉をひそめるが、彼女の場合、どうやらワームを駆除する行為そのものが、面白くないらしかった。
「ワームといえども、生き物を際限なく殺すものではありません」
「きみはヨギーかい」
ヨギー、またはヨーギン。この宗派には女性が多く、ゆるやかな菜食主義や、複雑な柔軟体操を実践し、男どもに「ダイエット教」と揶揄されていた。基本的に不殺生を宗とし、信者の主婦のいる家庭では、仕事で何度か閉口させられた覚えがある。ワームを殺さずに、ただ追い出してくれと言うのだから。
理論はけれど、小さく首を振った。眼鏡をこころもち持ち上げ、優等生のような声で言う。
「エイジさんは、サイレント・スプリングをご存知でしょうか」
「古典の書名かい? それとも、団体のほう?」
「後者ですね。略してSS。わたしはそこに属しています。幹部の一人であると、言ってもよいでしょう」
道理で、と胸の内でつぶやいた。
「団体のほう」のサイレント・スプリングは、動物愛護団体の中でも、過激な部類だ。さすがに軍隊並みの装備をもつ、ブルー・アースほど極端ではないが、各都市地区内で、なかなか派手は活動を展開し、団員数も多いと聞く。おれも抗議デモとぶつかって、何十分も車を停められた経験が一度ならずある。
「まさか、害虫屋のおれに説教するために、ここへ呼んだのではあるまいね」
自嘲的に微笑み、理論はまた首を振った。たしかにパンク・ロックみたいなこの部屋で、不殺生を説かれても、いまひとつ説得力に欠ける。おれが心中、穏やかでなかった理由は、むしろ「古典の書名」のほうに由来する。
サイレント・スプリングは、限定的民主主義時代の科学的啓蒙書で、大量の農薬が引き起こす野生生物の絶滅を警告した内容。ゆえに、動物愛護団体もその名を借用したのだろうが、この『沈黙の春』の著者の名は、レイチェル・カーソンという。
いや偶然だろう、偶然に違いないが、よりによってこの場所で、こんな形で「レイチェル」と再会したことは、やはり驚きだった。偶然は存在しない、という、アリーシャの言葉を思い合わせれば、なおさらに。
ただ、理論と名のる女の素性を知るに至って、おれがここへ呼ばれた理由も、少しばかりわかる気がした。
「きみたちの団体は、近頃、ツァラトゥストラ教徒と、ずいぶん衝突しているようだね」
新聞を斜め読みした程度の知識によれば、かれらはツァラトゥストラ教団の関連企業が行なっている「バイオ・ミミクリー」に対して、意義を唱えているらしい。バイオ・ミミクリーとは、動物模倣とでも訳すべきか。本来は、動物の形態や生態からヒントを得た技術を指し、例えば飛行機なんかも、鳥のバイオ・ミミクリーである。
ところが、教団の関連企業が研究・実験している技術は、一種の生体機械。クローンや合成ゲノムを応用し、生体そのものを機械に組み込もうという、不埒な計画だ。
(キュノポリス……)
なぜか唐突に、トリベノの爺さんの姿が浮かんだ。
衣ずれの音がして、理論が膝を進めたのがわかった。
「お察しのとおりです。教団の資金で運営される企業のひとつ、ナノグが、ここBB-33地区への進出を図っています。すでにダミー会社を通じて、いくつかの施設は入り込んでいるようです。たくみにカモフラージュされているため、刷新会議は、いまだに手が出せずにいます」
「しかし、経営者が誰であれ、ナノグといえば有数の世界企業だろう。こんな極東の地に、こそこそとお店を出さなくったって、充分やっていけるんじゃないか」