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謎の女は黙したまま、二、三度、意味ありげに目をしばたたかせた。
「あなたは、コーヒーと紅茶、どちらがお好きですか」
「間違いなく、コーヒー党でしょうね」
どこからともなく、二葉の非難する声が聞こえてくるようだ。嘘をおっしゃい。大日本おっぱい党員のくせに……女は胸の下で軽く腕を組み、初めてかすかに笑ってみせた。
「わたしもです」
話はそれからだ、というのだろう。苦笑を洩らした時点で、完全におれの負けだった。この女、見かけによらず凄腕ではないのか。いやむしろ、わざと野暮ったい恰好をして、カモフラージュしていると考えるのが自然か。
女は身をひるがえした。おれがついて来ることを、少しも疑っていないかのように、一度も振り向かず。一一〇七号室のドアの前で立ち止まり、たっぷり間を空けてから、取っ手を回した。どことなく、芝居がかった動作。それゆえにどこか現実感を欠いて、夢の中であがいているような気分にさせた。
実際のところ、おれはソファの上で、眠り込んでいるのではないのか。
「お入りになって」
招かれるままに、ドアを潜るといきなり、薄手のひらひらしたものが、顔に覆いかぶさった。のれんではなく、大量の下着が吊るしてあるのだ。おれは黒いパンティーを掻き分け、何というのかわからない、コルセットのようなものを押しのけ、巨大なブラジャーをかいくぐって進まねばならなかった。
リビングの惨状を、いちいち描写する気にはなれない。
とにかくすさまじく散らかっていた。ついさっき越してきたのだから、当然といえば当然なのだが、それにしても散らかっていた。アマリリスのおかげで、何とか片づいているものの、本来は怪奇・キノコ男の異名をとるこのおれが、ヒト様のことを言えた義理ではないけれど、それでもやっぱり散らかっていた。
ノルウェーあたりの森のように。
爆発事故でも起きたように、ありとあらゆるものがぶちまけられた床を、歩けただけでも驚嘆に値する。床に座るスペースが確保できたのは、海がまっぷたつに割れるほどの奇跡である。
「少しお待ちになって。コーヒーをお淹れしますわ」
おれは爆発事故現場に取り残された。いったい、あの下着の森の中で、どうやって湯を沸かすのか疑問である。
それにしても、女というものは、あれほど大量の下着を必要とするのだろうか。箪笥ごと処分してしまったので、今となっては知るよしもないけれど、妻もまた、引き出しの中に一個の森を、繁茂させていたのだろうか。とにかくひとつだけ言えるのは、黒いパンティーを穿いている女を信用するな、ということだ。
コーヒーの香りに気づいて目を上げた。この地雷原を、一滴もこぼさずに運んでくる足さばきには、心底驚かされた。おれの目の前に、もう一人ぶんのスペースが出現したことにも。
「椅子みたいなものは、ないんですかね」
女は首を振った。ぶちまけられた荷物に包囲されて、塹壕の中で身を寄せ合っているように、おれたちの間隔は限りなく近い。
「こうして、床に直接座るほうが落ち着くんです。冷めないうちにどうぞ」
「いただきますよ。それで、この部屋のどこに、狼よりも恐ろしい猛獣が隠れているのですか」
「狼?」
自身を指さすと、彼女はくすりと肩をすくめた。ばかにされたのか。おれだって、満月のようなおっぱいを拝めば、三流怪奇映画のウェアウルフくらいには、なれそうなものなのに。
「その前に、お互い名のりあいませんか。いつまでも『謎の女』のままでは、何かと不便でしょう」
「でしょうね。もしおれが三文小説の作者だったら、主語にしづらいですから。まあ、すべての謎が、それだけで解けるとは思えませんが、順序というものがありますからね。おれのことは、エイジとでも呼んでください。コードネームですがね」
「問題ありません。わたしは、理論です」
おれは大きく目をしばたたかせた、と思う。とても理路整然としているとは思えない部屋を見わたし、再び「謎の」女の顔を眺めた。
「理論? 相対性理論の、理論ですか」
「ええ。理論といえば、まっ先にその単語が浮かぶことを計算して、つけられた名のようです。残念なことなのか光栄なことなのか、これが本名ですのよ」
いずれにしても、おれは三文小説の作者でなかったことを、心から感謝した。