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アマリリスの掃除が行き届いているおかげで、覗き穴の視界は良好だった。女だ。二十代後半といったところか。カヲリほどではないが、髪を短く切り揃え、細いフレームの眼鏡をかけて、女教師をおもわせる、野暮ったいスーツを着ていた。
「はい」
「あ……夜分遅くに失礼します。隣に越してきた者ですが、少し手を貸していただきたくて」
とくに殺意は感じない。
業者を帰したのはよいけれど、女の腕では、荷物が動かせなくなった、といったところか。あり得ないストーリーではないが、少々強引すぎる気もする。まっ先に名乗らないのも、気に食わない。ドアを開けたら、いきなりズドンとやられてはたまらない。
「明日ではいけませんか。これから風呂に入って寝ちまおうかと、考えていたんですがね」
「はあ」
「どうせこっちは、暇を持て余している身ですから。明日になれば、一日じゅうだってお手伝いできますよ」
「いえ、たいした荷物はありませんから、そういうわけではないのです」
「ではどんなご用件で?」
魚眼レンズの向こうで、女は口ごもる様子。
「あの、しばらくの間、わたしの部屋にいてほしいのです」
「はい?」
「見ず知らずのかたに、いきなりこんなことをお願いするのは、失礼だとは存じますが。でもわたし、とても一人ではいられなくて」
新手の娼婦か?
という疑問が、まず頭に浮かんだ。タチのようくないホテルで、たまに見受けられる手だ。ホテルは娼婦とグルになっており、マージンを受けとる代わりに、鴨になりそうな男がチェックインすれば、隣室を提供する。娼婦はドレスのファスナーを上げて欲しいの何のと誘惑し、部屋に誘いこんだが最後、身ぐるみ剥いでしまおうという寸法だ。
しかしこの場合、わざわざ越してきてまで、おれごとき貧乏人を誘惑するなど、実入りに比べてリスクが高すぎる。なるほどそれゆえに、管理の杜撰な貧乏長屋を利用するのかもしれないが、やはり商売としては、あまりにも割に合わない。
(あるいは、ワームでも出たのか。おれが害虫屋だということを、どこかで聞いてきたのか)
そんな良心的な解釈が浮かぶ時点で、おれのお人好しは致命的といえる。だが、とりあえず刺客ではないと判断して、M36を尻のポケットに突っ込み、おれはドアを開けた。
「どうもすみません」
間近に立つと、かすかに艶のある香りがした。香水だろうか。最初に感じた地味な印象と、それはそぐわない芳香だった。
細く通った鼻筋と眼鏡とで、顔立ちは一見きつめだが、目元にはどこか、幼さが漂っていた。こんなことを言うとまた二葉に殴られそうだが、地味なスーツを内側から圧するほどの、豊満なおっぱいには、正直驚かされた。あの茨城麗子と、いい勝負かもしれない。
どう見ても危険人物とは思えないが、すでに言動がアブナいのだから、注意を怠るわけにはゆくまい。かすかな芳香も、どこか妖しげである。
十八番の、道化師のポーズでおれは言う。
「上司、といっても、まだ洟垂れ小僧ですがね、そいつが言ってましたよ。何が起きても不思議じゃない世の中だ、と。こんな世の中に、常識なんてものを振りかざすのはナンセンスの極みでしょうが、それでも常識的に考えて、見ず知らずの男を、夜中に部屋に招くのは、どうかと思いますね」
「こんな世の中だから、お願いしているのです。見ず知らずの男の方よりも恐ろしいものが、わたしの身辺にせまっています。あなたがあなたの上司の言葉を肯定するならば、わたしの申し出を不思議がるいわれはないでしょう?」
「なるほど……」
と言う以外、返す言葉もなかった。
「それで、絵本に出てくるジャングルの猛獣かもしれない、おれよりも恐ろしいものとは?」