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寝室は客間同様、まるで生活感がなかった。ダラウドは本当にここで寝ているのだろうかと、訝るほど、シーツには皺ひとつなく、物は多いが、すべて整然と、よそよそしく居並んでいた。浴室は美術品のようで、陳腐な言い回しであるが、トイレでは飯が食えそうだった。
腰の痛みに喘ぎながら、それでも二葉はさりげなく観察してみるのだが、ダラウドの正体を示唆するようなものは、何一つ見つからなかった。手が滑ったふりをして、引き出しの一つでも開けてみようか。怒鳴られるくらい、痛くも痒くもない。そう考えつつ横目で部屋の主を盗み見て、彼女は凍りついた。
いつの間にかダラウドは、小型拳銃を手にとり、みずから除菌布で磨いているのだ。
二葉は詳しくないが、間違いなく骨董の類い。エイジが見たら涎を垂らしそうなブツである。いかにも手慰みに磨いているふうだが、威嚇の意味が籠められているのは明らか。その証拠に、猛禽類の視線は間断なく、彼女たちの一挙手一投足を追っていた。
(冗談じゃないわ)
テロリストのボスかもしれない男に、あんなものを振り回されてはかなわない。もっとも、テロリストであればこそ、振り回すのは当然かもしれないが。
そうこうするうちにも、タイムリミットはせまっていた。三十分以内に作業を終えなければならず、一秒でも超えることは許されない。腰の痛みは、もはや背骨にまで及び、体勢を変えるたびに、激痛に貫かれた。眉間に皺を寄せ、歯を食いしばっていても、洩れてくる呻き声を、どうすることもできなかった。
ただ救いだったのは、霞美がいたことである。
彼女の手際のよさは、横目で眺めても驚嘆に値した。丁寧で迅速。選択を過たず、動きに無駄のないことは、ゲーム機の銃座でみせた腕前と共通するものがあった。しかも、時おり二葉が腰を伸ばせるように、彼女をダラウドの視線からさえぎってくれるのだ。おかげで二十八分で、どうにか作業を終えられた。
「ふん、まあそんなところでしょう。ちょっとあなた」
指さされて、二葉はぎくりと腰から手を離した。
「はい」
「少し汗をかきすぎていますよ。そんなもので、部屋をまた汚されてはこまりますね」
「すみません、閣下」
なぜ謝っているのか自分でもわからないまま。とにかく頭を下げている間も、汗が床に滴り落ちるのではないかと、気が気ではなかった。
「食事はきっちり十五分後に。一秒の遅刻も許しません」
部屋を出たとたん、二葉は廊下にくずおれた。
「なによあれ、なによあれ、なによあれ!」
「しっ……聞こえちゃいますよ。それに、早く夕食を運ぶ準備をしないと」
「冗談じゃないわ! 霞美も見たでしょう。拳銃なんかちらつかせちゃってさ、うっかり花瓶の一つでも落とそうものなら、あれでズドンとやられるわけ?」
実際、寓話の鶴が食事に使うような、細い白磁の花瓶を落としかけた場面を思い出し、今さらながら戦慄した。二葉を凝視するダラウドの目には、明らかに殺意が籠もっていた。
部屋の家具や小物は、通常、すべてホテルの備品だ。ゼロナンバーのスイートともなれば、最高級品が揃えてある。にもかかわらず、ダラウドはいくつかの家具を「悪趣味」と一蹴し、自身で持ち込んでいた。当然といおうか、搬入時には、業者の取り扱いを巡るすったもんだがあったようだ。
二葉が落としかけた花瓶も、かれが持参した小物のひとつだった。ダラウドは、それに花を生けることを禁じているという。
「もしそうなら、これまでに五人のメイドが、殺されているでしょう。だいいち、汗の一滴すら嫌う人が、みずからの部屋を好んで血で汚したりするでしょうか」
「な……なるほどね」
霞美に手を借りて引き起こされた。配膳室へ向かいながら、二葉は自分のほうが先輩なのに、なんだか立場が逆転しているような気がした。配膳室は各階にあり、食事運搬用のエレベーターで、一階の調理場と直結されていた。息を弾ませて駆けつけた二人を、キャンディーこと生田累が出迎えた。
「どうだった?」
メイド長に禁止されている腕まくりをして、軽く腰に手をあてて尋ねるのだ。
「割に合わないバイトだわ。わたしたち、ロオマ時代の奴隷じゃないんだから」
「減らず口が叩けるうちは、だいじょうぶ。トレーの準備はほぼ調っているから、あなたたちは運ぶだけでいいわ。ひと息ついたら?」
紅茶の盆を指さして、キャンディーは片目を閉じた。