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「そうだね。アイゼンシュタインの『螺旋量子論』なんかよりは、むしろ童話を勧めたい気もするね。十歳くらいの女の子が、地底で変てこな冒険をする話なんか、どうだろう」
小動物のように、少女はきょとんとした顔。
しかし考えてみれば、彼女には最初から、かなり高度な教養がそなわっていた。芸術に関する知識もあるようだし、料理を作りながら鼻歌を歌えば、ワーグナーの旋律が飛び出してくる。文字情報のデータは軽量なので、何千万冊もの本ををまるごと暗記するくらい、アマリリスには容易であるはずだ。
けれど、読書をあくまで「体験」ととらえるならば、あらかじめインプットされていることに意味はない。なにがしかの時間を無駄にして、感動したり退屈したりする必要がある。例えば、生まれながらに、テニスの技能が完璧に備わっていたとしても、一度もラケットを振らなければ、テニスをしたことにならない。
「冒険、ですか?」
「そうだね。頭のイカレた帽子屋と茶を飲んだり、体が伸びたり縮んだり」
と、我ながらちっとも面白そうに要約できない。アマリリスは、けれど見る間に瞳を輝かせた。
「面白そうですね、マスター!」
なぜ唐突に、この童話が浮かんだのか、今さらながら理解できた。エプロンを身につけた恰好もそうだけど、少女の名が、童話の女の子と似ているのだ。そう、彼女の名の間から、妻の名を除けば……見れば、アマリリスは、やはり小動物をおもわせる仕ぐさで、聞き耳を立てていた。
「どうした?」
「隣の部屋に、侵入者があります」
彼女が指さしたのは、一一〇七号室、すなわちレイチェルの部屋に面した側だった。とっさに、悪夢のようなマッドピエロの顔が浮かんだ。これまで来なかったのが、不思議なくらいだ。おれは腰を浮かせ、壁にかけたホルスターからパイソンを引き抜いた。
安普請なので、壁は決して厚くない。耳を押し当てると、たしかにがさごそと音がする。何者かがしきりに動き回り、時折、ごとりと重い物を床に下ろしたりする。話し声は、まったく聞こえないが、もしこれまでの経緯がなければ、引越しが始まったのだと考えたろう。
引越しが?
隣の部屋に、家具も荷物もないことを、おれは知っている。例のマッドピエロが、宅配業者を装って襲ってきたとき、隣室はすでに藻抜けの殻だった。だからレイチェルは一時的に身を隠したのであり、いずれ戻って来るだろう、と、おれは漠然と考えていた。間の抜けた話だ。彼女がすでに解約している可能性に、どうして思い当たらなかったのか。
そうだ、ただの引越しと考えるのが、最も理に適っている。レイチェルとは縁もゆかりもない、赤の他人が、タダ同然の家賃に惹かれて、この老朽化した雇用促進住宅に越してきたに過ぎない。いまだに話し声が聞こえないのは、引越し屋のアンちゃんがチャペックと組んで、黙々と作業しているからだろう。
「何人いるかわかるか?」
「一名と思われます。それと、チャペックが一体」
「そんなところだろう」
溜め息をついて壁から身を離した。念のため銃を隠し持ったまま、そっと玄関のドアを開けてみると、全開にされた隣室のドアから、灯りが洩れていた。ボール箱の山と、運搬用チャペックが覗いたから、やはり「ただの」引越しとおぼしい。
願わくば、新たな隣の住人が、真夜中にギターを掻き鳴らしつつ、クロック鳥が絞め殺されるような声で歌いだすような、頭のイカレたアンちゃんでないことを祈るばかりだ。黙らせるのはわけないが、後味がよくないし面倒である。
「明日あたり、本屋を漁ってみよう。コーヒーをもう一杯頼むよ」
もの音は、三十分もしないうちに、ぱたりと絶えた。やがてアマリリスがシャワーを浴びて、自室に下がった。一朗が来たときに、彼女の部屋そのものが改修されており、室温はマイナス十度を超えないよう、設定されていた。彼女のベッドであるカプセルのレプリカ、および周辺機器の放熱を抑え、性能を上げるためだ。
おれは何となく眠る気になれないまま、灰皿に吸殻の山を築いていた。ページから目を離し、ぼんやりと煙の行方を目で追いながら、いつの間にかレイチェルのことを考えていた。扉がノックされたのは、真夜中近く。
(こんな時間に?)
隣の住人が挨拶に来たのだろうか。だとしたら、やはり頭のイカレたやつだと思わざるを得ない。ほかに、唐突に訪ねて来る者といえば二葉だが、彼女は今頃、新東亜ホテルに住み込みで入っているはずだ……おれは足音を忍ばせてドアの後ろに立ち、覗き穴に目を近づけた。