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(やはり、電話を入れておくべきだったか)

 階段の途中で、おれは立ち止まった。三階と四階の間である。戻るつもりはまったくなかった。これまで、いつ立ち寄っても八幡商店は開いていたし、無駄足になったらなったで、べつにかまわない。仰々しく予約を入れるまでもない。何よりも、電話を見るとまたあのワットのくそガキを思い出しそうで、それがいやだった。

 足を止めたのは、靴音が聞こえたからだ。

 カツ、カツ、カツと速いリズムで床を打ち鳴らしている。一階のロビーを走りぬけ、階段にさしかかり、さらに駆け上がってくる様子。おれは下方の踊り場を凝視した。しだいに高まる靴音に、荒い息づかいが混じる。女であるらしい。

 何ものかに、彼女が追われていると確信したとき、人影が踊り場に飛び出してきた。ほっそりとしたシルエット。長いストレートヘアが、肩に背に乱れている。上を向いたせつな、彼女はぎょっと立ち止まり、大きく目を見開くのがわかった。おれはわざと道化じみた動作で、見えない帽子をとる仕ぐさ。

「ごきげんよう、セニョリータ」

 ぼくと踊っていただけませんか? とでも言うように、深々とおじぎした。二メートル下の踊り場で、ふと緊張が緩む気配を感じた。

「エイジさん?」

「シ(はい)」

 相手が落ち着くのを確認して、おれはゆっくりと階段を降りた。薄闇の中、上品な香水の香りが、彼女をふんわりと包んでいた。地味な濃紺のロングコート。ブラウスの襟元にのぞくリボンタイも、彼女をまるで高校生のように、初々しく見せていた。キノコ男は、内心たじろいだ。

 この女性がだれなのか、もちろんとっくにわかっていた。一月ほど前に一一〇七号室に越してきたのだが、わざわざ隣のおれの部屋まで挨拶に訪れたときは、さすがに面食らったものだ。

(レイチェルと申します)

(外国のかた?)

(いいえ。もちろん本名ではありませんわ)

 まあ、おれだって「エイジ」というコードネームで通しているのだから、他人をとやかく言えた義理ではないのだが。それでも驚いたのは、レイチェルがカタギにしか見えなかったからだ。おれみたいに後ろ暗い商売をしている人間とは、根本的に人種が違う。後ろ暗い商売をしているからこそ、そのへんの嗅覚には自信があった。

 推定年齢一九歳。他人の素性を根掘り葉掘り訊かない主義だが、大学生と考えるのが妥当だろう。

「よかった。わたし怖くて!」

 いきなり、花束が胸に飛びこんできた。とても抱えきれないくらいの花束。芳香に溺れそうになりながら、どうにかこうにか踊り場から落下しないよう、踏みとどまった。思わず覆った腕の中で、驚くほど華奢な体が鳩のように震えていた。

「いったい?」

「犬に追いかけられたんです。それも体があり得ない角度にねじ曲がって、白目を剥いて、黒い斑紋の浮いた舌を、ぬめぬめと地面に引きずっていました」

「寄生虫……おそらく、サミダレムシでしょう」

 レイチェルの簡潔、かつ的確な描写のおかげで、おれはすぐに特定できた。寄生型ワームCB4-24、サミダレムシは小型から中型の犬にしか寄生しない。哀れな話だが、寄生された犬は、末期には完全に体を乗っ取られ、彼女が話したような、おぞましい姿でさまよい歩く。

「時々、人を追いかけますが、襲いかかることはまずありません。体を乗っ取られてもまだ、わずかに意識が残っているんでしょう。飼い主の面影を慕うのだといわれています」

 胸にしがみついている彼女の両手に、ぎゅっと力がこもった。おいおい、いくら顔見知りとはいえ、ろくに素性も知らない者どうし、これはまずいんじゃないか。もしおれに下心があれば、この場で簡単に押し倒せるんだぜセニョリータ。などと考えつつ、ともすれば反応しそうになる股間を懸命にセーブしつつも、例の嗅覚がみょうな違和感を嗅ぎとっていた。

 必死に逃げてきたわりに、さっきの説明は上出来すぎやしないか?

「ごめんなさい、取り乱しちゃって。でも、エイジさんが害虫駆除の専門家でよかった」

 ようやく身を離し、レイチェルは笑顔をみせた。害虫駆除の専門家は、引きつった笑みを返し、さりげなくズボンのポケットに手を入れた。こいつはM36よりずっと扱いにくい。

「暗くなってからの一人歩きは、あまり感心できませんね」

「気をつけます。じつは近ごろ、部屋に虫がいそうな気がして不安なんです。それで帰宅するのがいやで……お暇な時でかまいませんから、今度調べてもらえますか。あっ、もちろん報酬はお支払いしますから」

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