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本当に、チェックアウトしたのだろうか。その男もまた、「消えた」のではあるまいか。ふとそんな疑問が、二葉の脳裏をよぎった。
このホテルで消えるのは、メイドやウェイターだけではないのかもしれない。
「お茶を淹れるわ。ダージリンでだいじょうぶ?」
はい。と、霞美が嬉々としてこたえ、二葉はうなずいた。エプロンの結びめを華麗に揺らしながら、キャンディーはキッチンに立った。その背中に、二葉は尋ねる。
「ここでは、メイドがお茶を淹れる場合があるの?」
やがて漂ってきたよい香りの向こうから、キャンディーが答えた。
「ええ。紅茶なら、基本的に朝はアッサム、夜はダージリンよ。お望みとあらば、アールグレイも用意できる。もちろん茶葉は混じり気なし、純度百パーのブツ」
「本館の流儀とは違うようだけど」
「あっちはガチガチの英国式だから。メイドはいっさい食物に手を触れないし、ルームサービスはウェイターの仕事だものね」
彼女が運んできた盆には、ティーポットとカップが四つ。二葉の訝しげな視線を受け流して、うち三つのカップに、片手で器用に茶が注がれた。二人とも作法どおり、ソーサーごと持ち上げるのを、キャンディーは感心したように眺め、語を継いだ。
「まあ、理由はいろいろあるでしょうね。たとえば、ここは本館より、従業員も圧倒的に少ないから。必然的に、高コストな英国式よりは、かつてジョチュウが何でも賄っていた、日本式に近くなるんじゃないかしら。今流行りの、エコロジカルってやつ。それに」
「それに?」
「本館とはシステムが違うもの。あっちはお客の出入りが激しいけれど、別館のほうは長逗留が多い。要するに、こっちのメイドは部屋の清掃と備品を管理する係というより、家事全般にたずさわる、家庭のメイドに近いのかもしれないわ」
彼女が淹れた茶は、少々濃すぎるきらいはあったが、まず申し分なかった。例えばアマリリスが淹れる、温度から抽出具合まで完璧に計算された紅茶と比べると、ざっくばらんな愛嬌があるというべきか。それもまた、芝居がかった味がするにせよ。
「そろそろ問題の泊り客について教えてほしいものね」
「五〇二号の? それとも……」
「どっちも知りたいけど、とりあえず、五人のメイドを逃げ出させた客のほうから。単なる口うるさい客ではなさそうね」
キャンディーこと生田累は、カップを手にしたまま、肩をすくめた。
「いわゆる狂信者の類いね。デノア派という、ツァラトゥストラ教の中でもとくに風変わりな一派を信仰しているわ。宿帳に記載された名は、グム・ダラウド。どうせ偽名でしょうし、アジア系ではあるらしいけど、国籍は不明ね。日本語は流暢に話すわ」
よく他人を無国籍呼ばわりできたものだと感心するが、なるほど、かなりヤバそうな人物である。
デノア派は、たしかにツァラトゥストラ教徒の中では少数派だが、他の流派と対立するのではなく、上に立つ形で、隠然たる影響力をもつと聞く。もともと資金が豊潤な教団の中でも随一といわれる、莫大な財力を背景に、ジークムント旅団などの過激派を陰であやつっているのも、かれらだという噂もある。
つまりグム・ダラウドは、どう安く見積もっても、教団の要人には違いあるまい。へたをすると、この国そのものを乗っ取ってしまいかねない、過激派のボスをかくまっている可能性もある。夜の公園で彼女を囲んだガスマスクたちの姿が思い合わされ、二葉は背中に戦慄をおぼえた。
「それこそ刷新に突き出せば、懸賞金モノじゃないの。ホテル側としても、自称ダラウド氏みたいな人物が泊まっていることは、トップシークレットなんでしょう。それを、とくにわたしみたいな、どこの馬の骨とも知れないメイドに洩らしていいの?」
「まずいわね。それが真実なら」
「どういうこと?」
彼女はカップを悠然と口へ運んだ。豊かな金髪とあいまって、二葉でさえ覚えず見とれるほど、さまになっていた。次に彼女は、いたずらっぽく片目を閉じた。
「お客がテロリストだろうと殺人鬼だろうと、お金さえ払ってくれる以上、別館では関知しないということよ。だからダラウド氏が過激派を自称しようが、じつはIBだと名乗ろうが、ジョーク、もしくはゲームとして受け流すのが、ここの方針。そう、すべてゲームなのよ。わたしが担当した客が、竜門寺を騙ったようにね」
IB、という言葉が、再び彼女の眉をひそめさせた。キャンディーの腰かけているベッドの上段で、何者かがむくむくと起き上がったのは、そのとき。