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まともに顔に出たのだろう。カヲリは肩を揺らして笑い、チーズをわざと無作法に、口へ放り込んだ。おれは冷たい汗が吹き出すのを意識した。
あの私道は、スキャナーでさえ手に負えなかったほどの、電波的無法地帯と化していた。ミッションのため侵入した、おれとアマリリス、そして二葉以外は、あの中で何が起こっているか、知るすべはなかったはずだ。ソフトボールなんか転がしたところで、ノイズばかりが延々と記録されたことだろう。
おれの言いたいことを察したように、カヲリは肩をすくめると、かたわらの鞄に手をかけた。やがてB5版ほどの紙片が一枚、テーブルに載せられた。プリントアウトした写真らしい。蒼黒い画面はひどく不鮮明で、おれは覚えず手にとって、顔を近づけた。
ノイズが激しいうえ、解像度が荒く、しかも暗い。悪意ある抽象画家のタブローのように、こちらの想像力を喚起して、様々な怪物を生み出すかのようだ。
(理性の眠りが怪物を生む)
なぜか唐突にそんな言葉が浮かんだとき、ひたすら混沌としていた画面が、たちまち一枚の具象画と化した。黒々と茂る木立。動物じみた常緑樹の葉むらに囲まれて、巨大な多脚ワームが、無数の鎌を振りかざし、身をのけぞらせていた。
その蠕動するおぞましい腹部に、まるでしがみつくように、片手を爪を深々と食い入らせた少女……アマリリスの姿が、はっきりと写っていた。
「無人探知機としては最高の機械を送りこんだのだが、このザマだ。一枚だけ奇跡的に静止画が撮れていた」
「この情報は……」
「心配するな。この一枚だけデータから引き抜いておいた。当局にわたした静止画は、どれもコンピューターの解析すら受け付けない、ノイズの塊ばかりだよ」
安堵のあまり、椅子の背にもたれた。けれど、カヲリの真意はいまだ知れない。なぜそこまで知りながら、おれたちを泳がせておいたのか。まさかアマリリスがIBであることまで、突き止めているとは思えないが。
「いろいろと、訊きたいことがあるんじゃないか」
かすれた声で尋ねると、彼女は赤い唇を歪めた。例の写真をちょっと眺め、また無造作に、鞄に放り込んだ。
「わたしも完全に、刷新会議の犬と成り下がったわけではないのでね」
「いつでも裏切る用意はある、と?」
「そこまでの積極性がわたしにあるかどうか、帰って麗子に尋ねてみるがいい。ただ、世界を崩壊へと導く要素を、指をくわえて見ていたくはないという。その程度の正義感なら、持ち合わせているつもりだ」
「世界を、崩壊へ?」
覚えず横目でアマリリスを眺めた。少女は姿勢よく座ったまま、静かにおれたちの話に耳を傾けている。まるで大人の会話に対し、あからさまに退屈な素振りを見せぬよう、躾けられた少女のように。そうだ。今ここで、おれが一言つぶやくだけで、世界が終わる。この世界を破壊し尽くせと、ぴんと背筋を伸ばした少女の耳もとで、ただ一言。
カヲリはサングラスに手をかけ、わずかに下にずらした。アイシャドウを薄く引いた、切れ長の目。漆黒の瞳がおれを見据えた。まるでおれの思考を検閲するかのように。
「それは間違いなく、ここ、BB-33地区から始まるだろう」
サングラスが元の位置に戻され、おれは視線の呪縛を解かれた。煙草を探る手が、だらしなく震えた。
「あんたがもし、『幽霊船』のことを言ってるのなら、すでにケリがついたと言わせてもらう。お察しのとおり、おれは報告書に書けないものと出くわした。あり得べからざるもの。そこにあってはならないもの……しかしそいつは葬り去られた。地震のせいなんかじゃない。ある女が、身を挺して葬り去ったんだ」
「抽象的、かつ、感傷的すぎるな」
「何とでも言え。あんなものを目の当たりにして、冷静でいられるやつがいたら、狂っているのはそいつの頭だ」
苦笑とも溜め息ともつかぬ吐息をもらし、カヲリはグラスを傾けた。
「今夜は貴様を招いてよかったよ。おかげでずいぶん、わたしの考えが間違っていないのだという、確信が強まった」
「なに?」
「よもや貴様とて、『幽霊船』ですべてケリがついたとは、信じておるまい。意識にのぼらせたいかどうかは、別としてもだ」
「何が言いたい?」
「貴様が『幽霊船』で見たものもまた、不完全なプロトタイプ、失敗作に過ぎなかったと言いたいのだ。人食い私道の多脚ワームと、同じようにね」
冷たい沈黙がおとずれた。
不意にカヲリは席を立ち、鞄を小脇に抱えて、伝票を手にした。そのまま背を向けると、おれたちに一瞥もくれず、店を出て行った。