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「とりあえず貴様の生還を祝って、乾杯させてほしい」
グラスをかかげて彼女は言う。その姿が、またえらくサマになっている。相変わらずの貴様呼ばわりだが、文字にすれば敬語には違いあるまい。
「刷新の経費で飲めるのか」
「野暮なことを言う。わたしのポケットマネーだ」
グラスが触れ合わされ、少女が遠慮がちに、おれたちに倣う。前菜のサラダは、模造品のようにみずみずしく、汚染指数の低さを示す鑑定書までつけられていた。
飯は済ませてきたことを、あらためて念を押すと、飲むためのコースだから心配ないという。ワインは透きとおるような白で、明らかに合成モノではない。こんな混じりけなしのワインを目の前にするのは、けれど久しぶりではない。「幽霊船」における奇怪な宴では、血の色をしていたが。
「報告書は読ませてもらった」
「気に入ってもらえただろうか」
「ふん、伏字だらけの政治的ポルノ小説くらいには、な。想像力だけは、おおいに刺激されたよ」
旧首長連合は出版物の検閲にうるさかった。ペンは剣より何とやら。どうやら連中は、ペンの力を本気で恐れていたフシがある。とくに旧来の印刷物には、異様なまでに目を光らせた。中でも政治とポルノが槍玉にあげられたのは、言うまでもない。カヲリが言うような伏字だらけのパンフレットを、おれも笑い転げながら読んだ覚えがある。
対して、人類刷新会議は、出版物を放任する代わりに、映像を徹底的に規制した。いまだにテレヴィジョンが映らないのも、やつらの仕業。電脳網もほとんど牛耳られたまま、多少なりともヤバイ商売を手広くやっている連中は、ワットのように、独自のネットワークを構築するしかなかった。
そのワット自身が、刷新会議の武装警官、カヲリとの繋がりをにおわせているのだから、コトは複雑なのだが……彼女は語を継いだ。
「もちろん『幽霊船』へは、すでに調査員を入れてある。おおよそ、貴様の報告どおりの事実が確認されつつある。ただ」
おれはグラスを鼻先で止めたまま、眉をひそめた。まさか、「あれ」を発見したというのか。
「ただ?」
「もともとあれは、第二次百年戦争の遺物だからな。老朽化がひどい。とくに要塞だった中心部は、例の地震とやらで、壊滅的なダメージを被ったらしい。周囲の居住区がほとんど無傷だったのは、奇跡としか言いようがないが、まあ、コンクリートの面の皮は、案外ぶ厚かったということか」
軽い溜め息で、彼女のグラスが曇るのを見た。おれは内心、少なからず安堵していた。そこにあってはならぬものたち。バルブも、人型IBも、とりあえずは、瓦礫の中に封印されたらしい。あんなものを、二度と目にするのはごめんだ。
けれど心のどこか奥深いところで、きっとまた目にするだろうという声がする。物事は基本的に、二度繰り返す性質をもっている。これはおれの乏しい人生経験の中で、学んだ法則の一つだ。よきにせよ悪しきにせよ、驚くほど似たシチュエーションが波のように再来する。ゆえに「二の矢」への警戒を、怠ってはならない。
「刷新はあれを、取り壊すつもりなんだろう」
「いずれはな。麻薬密造の事実が判明した以上、強硬手段にうったえる大義名分もできた」
「しかし、それをやったのはジークムント旅団であって、居住民ではない。むしろかれらは被害者だろう。それとも、『幽霊船』の立ち退き者たち一人一人の住居と職を保障できるほど、刷新のフトコロは豊かなのかい」
覚えずムキになったのは、マキの肩を持ったつもり。彼女は「幽霊船」とともに朽ちてゆくのだと言い、それが正しいのか間違っているのか、おれなんかにはわからない。むしろ強制的にでも、あの場所を離れて、もっと明るい街で暮らしたほうが、マキのためになるような気もする。
そういった常識とはまた別のところで、彼女が守りたがっているものを守りたいという意識が、はたらいたのかもしれない。カヲリは皮肉らしく、唇をゆがめた。
「だから、いずれはと言っている。あそこの住民たちと衝突する労力を、今の我々は惜しむのだ」
サングラスの向こうで、彼女の視線が、ふと逸らされたのがわかった。窓の外には、どこかもの悲しい夜景が広がっていた。もう一度視野を転じると、彼女の眼差しが、じっとアマリリスの上に注がれていた。少女もまた、生真面目な様子でカヲリを見返している。
「野暮な質問をさせてもらっていいか」
「ああ。年の離れた妹だなんて言わないから、安心してくれ」
カヲリはくすりと肩をすくめ、チーズをナイフで両断した。片方をそのまま串刺しにして、唇の前で留めた。
「人食い私道の多脚ワームを倒したのは、この子ということで、間違っていないな」