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 逆さAの紋章!

 車をロックするのももどかしい思いで、駐車場を飛び出した。刷新の下請け業者が剥いでも剥いでも、翌朝には貼り紙でいっぱいになる壁。無数の紙の残骸が、地層のように堆積する上に、まだインクのにおいが鼻をつくような、真紅の下地が血の色の鮮やかさで、おれの瞳を焼いた。

「どうか、なさいましたか」

「近くに、きみと同い年くらいの少年はいないか。人形のように奇麗な顔をしたやつだ。左腕に腕章をつけているかもしれない。これと同じマークの!」

 おれの剣幕に、さすがにアマリリスは驚いた様子で、目を大きくしばたたかせた。それでも神経を集中させるように、軽く眉根を寄せ、あたりを見わたしてから、つぶやいた。

「確認できません」

 溜め息をもらして、ほとんど無意識に煙草をくわえた。

「だろうな。いや、すまなかった」

 ポスターを引き剥がすと、丸めて地面に叩きつけた。単なる偶然だ。偶然という名の、神の悪戯だ。ツァラトゥストラ教の広告なんて、街にありふれている。少なくとも、なかなか新譜を出さないジギー・バンデル・ルーデンのポスターよりは。

 煙草に火をつけて、あらためて辺りを見わたした。ほとんど足を踏み入れたことのない繁華街で、夜に訪れるのは初めてかもしれない。昼間は下りたシャッターの目立つ、くすんだ印象の街だったが、日が暮れたとたんに華やぐ性格らしい。着色ガス管が方々できらめき、人通りは多く、それにともなって、

「さっそく寄ってきたな」

 蜜のにおいを嗅ぎつけた小角ワームのように、足もとに転がってきた超小型無人偵察機、ソフトボールにおれはウインクしてみせた。業者でもないのに、ポスターをいきなり引き剥がした人物は、Dランクの不審者くらいには見積もられたかもしれない。

 むかし、おれの友人に、アマリリスくらいの少女をひたすら尾行するのが趣味だという、愉快な男がいたが、Dランクといえば、その程度か。おまけにおれも、こんな時間に少女を連れ回しているのだから、世話はない。今ごろは刷新のコンピューターにおれのウインクが、付箋つきで登録されているだろう。

「何なら、ついてくるかい? あんたの親玉に会わせてやるよ」

 言葉が通じたとも思えぬが、そう言うとソフトボールは、きびすを返して人ごみにまぎれた。

 近ごろでは、こいつの贋物もずいぶん転がっていると言っていたのは、一朗だったか、一彦のほうだったか。ソフトボールを捕まえて自分用に中身を改造する、不埒なヤカラが増えているらしい。そんな八幡兄弟にしたところで、一個や二個は必ずバラしているに違いない。

 目当てのビルは、容易に見つかった。

 西洋の化け物屋敷を模したような、奇怪な意匠がきわだっていた。骸骨の門番に見守られながら自動扉を潜ると、いかにも手狭なエレベーターホールに出た。一階には何もなく、飲食店が入っているのは上階以降らしい。ゴンドラの中もまた、延命カプセルなみの狭さ。

「最上階、六階でよろしかったですか」

 さっそくボタンを押す手つきで、アマリリスが尋ねた。主人の労を省くというより、ボタンを押すのが楽しいのではないか、と、思わせるフシがあった。ドアが閉まると、ほとんどそれが唯一の灯りとなって、少女の押した数字が真紅に縁取られた。

 ゴンドラは、いやにゆっくりと上昇した。他に乗り込んでくる客はなく、相変わらず生真面目な少女の表情を、真紅の灯りが薄く照らしていた。いたいけな少女を悪所に連れ込んでいるような、罪悪感がつのる。実際にここは飲食店が入る前、やはりそんな場所ではなかったか。

 最上階の店は、けれどそんな懸念を吹き飛ばすほど、落ち着いた印象だった。魔窟じみた雰囲気をわざと利用して、際どいところで美的にまとめられていた。黒づくめのウェイターに名を告げると、奥のテーブルへ案内された。観葉植物のかたわらに、無言でたたずむ西洋甲冑を目にして、おれは思わず足を止めた。

 マキを思い出したのだ。

「そんな所で、突っ立っていられてもこまる。レディが二人も待っているのだよ」

 正面に座って、カヲリは軽く片手を上げていた。相変わらずの黒いパンツスーツ姿。細いサングラスの下で、唇が真紅の月の形を描いていた。

 おれとアマリリスは、彼女の向かいに並んでかけた。急に連れて来たにもかかわらず、少女の席とグラスが、ちゃんと用意されていた。ウェイターが後ろからワインを注ぐ間、おれとカヲリは睨みあっていた。はた目には、見つめあっているようにしか映らなかったろうけれど。

 少女のグラスには、別の小瓶から、炭酸の果実水が注がれたようだ。

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