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コードネーム「カヲリ」から連絡が入ったのは、その夜だ。いつぞやのように、勝手にベッドに潜り込まれてはかなわないが、このたびは、普通に外へ呼び出された。
さいわい、大破した車の代わりに、一朗が代車を手配してくれた。先代に輪をかけたポンコツであったが、ないよりは百倍まし。タダで貸してもらうのだから、文句は言えまい。
「眠くないか?」
「問題ありません、マスター」
迷ったあげく、アマリリスを連れて行くことにした。おれが常に少女をともなっていることは、とっくに割れている。むろん、彼女がIBであるところまで知られれば、かなりまずいことになるが。一朗の「実験」を見た限り、ちょっとやそっとでボロは出ないと確信した。
ただ、カヲリは茨城麗子と学生時代の同期であり、親友だったと聞く。彼女がその気になれば、麗子の口を割らせることで、様々な秘密が芋蔓式に洩れてしまうだろう。逆に言えば、おれが下手に隠そうとしたところで、無意味というわけだ。
車に乗り込む頃には、夜の十時を回っていた。
アマリリスは問題ないと言ったが、やはりどこか気怠そうに見えた。長いこと眠り姫状態だったのだから、無理もあるまい。さすがに欠伸ひとつしないものの、フロントグラス越しに流れる夜景を見つめる目が、ともすれば閉じられそうになる。眠たがる少女を、無理に夜の街に連れ出したようで、軽い罪悪感を覚えた。
代車の乗り心地は、最低の一言に尽きた。一週間放置したパンのように、硬いサス。今にも分解しなのが不思議なほどの震動。狂ったヴァイオリンと大差ないエンジン音。たしか一朗は、「泥炭」のみを燃料に走るとか、信じられないことを言っていたっけ。
汚染された土壌が、可燃物質をたっぷり含んでいるのは事実だが、何が含まれているのか、見当がつかないのもまた事実。照明や暖をとる程度に使うならともかく、あんなものを大量に燃やしているうちに、ドカンといってしまうのではないか。ワンブロックほど巻き添えにして。
しかし、心配事はそれだけではなかった。
(マッドピエロ氏は、再び襲ってくるだろうか)
少女を連れて出たのは、その危惧があったからでもある。例えばおれが出かけ、少女がカプセルに入っている頃を見計らい、各個撃破を企てられては面倒だ。少なくとも、しばらくの間、おれたちはともに行動するに越したことはない。
(二葉も、変な連中につけ狙われていると言っていたな……)
ツァラトゥストラ教徒過激派と思われる、ガスマスクの一団。そいつらは、二葉のクラスメイトである、鳥辺野霞美という少女をマークしていた。
トリベノ……その名を聞いた瞬間、最後におれに向かって敬礼した爺さんの姿が、鮮明に思い起こされた。連動するように、様々な記憶の断片がフラッシュバックを起こした。竜門寺武留の、変わり果てた死体。心臓を撃ち抜かれても、死ななかった少年。そして、
アリーシャ。
派手にクラクションを鳴らして、対向車線を食み出した大型スクーターが、正面から突っ込んできた。やつか? と、身構えたが、ただの酔っ払いとおぼしく、すれすれをかすめて後方に飛び去った。手前で突っ込んできたくせに、危ねえだろうとか何とか、理不尽な罵声とともに。
「まったく、マッドピエロ氏も、おれみたいな模範的ドライバーではなく、あのてのヤカラにパンツァーファウストをお見舞いしてほしいもんだね」
「処分いたしますか?」
「ああ、いや。今のはウィットに富んだジョークというやつで、本気にしてはいけない」
「了解しました」
ウケなかったジョークをみずから解説するほど、虚しいものはない。ずいぶん「人間らしく」なったとはいえ、少女から笑顔を引き出すのは、まだまだ至難のわざといえる。それにしても……
(処分いたしますか?)
おそらくおれが「処分しろ」と命じれば、少女は迷わず、さっきのスクーター男を火だるまにしただろう。世界を破壊し尽くせ、と命じれば、おそらく全力をあげて、ひたすらに命令を遂行するだろう。それが不可能でないとすれば、おれは、このどうしようもないおれというやつは、神とやらに匹敵する力を得たことになるのか。
ガラスの向こうの灯りがしだいに増えて、繁華街に入ったことが知れた。駐車場に入れるため、苦労してハンドルを切っている最中、薄汚れた壁に貼られた一枚のポスターが、炎のようにおれの目を射た。