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かれの右腕は強化されており、大型のバックフォーなみの力を有する。相崎博士によって、一部に禁断の生体機械が用いられているという噂である。
「そうだね。忘れてた」
右手を結んで開きながら、一朗がつぶやいた。おれは気が乗らないまま。
「できれば、ようやく寝かしつけた子を起こすようなマネは、したくないんだが」
「IB化させるには及びません。むしろ、統御する能力が上がっていることを、お目にかけたいのです」
これまでは、IB化しなければ、彼女の左手は破壊力を持たなかった。逆に、たとえば道具を用いずに胡桃を割りたい場合、その都度、生のIBを現出させなければならないという、リスクをともなう。そうして多脚ワームとの戦闘において、彼女はIBを統御できなくなり、浸蝕されそうになったのだ。
(……わたしを……見ないで)
相崎博士によれば、アマリリスにとってIBに浸蝕される感覚は、苦痛よりもむしろ快感であるという。だとすると、少女は戦闘のたびに、殺戮の寛喜と闘っていたことになる。
いわば少女にとって、IB化した左手は、恥部に等しいものだろう。殺戮と破壊の快楽に、これまで彼女は懸命に耐えてきた。圧倒的な快楽に呑まれたときが、IBに浸蝕されたことを意味すると知っていたから。彼女はそれは、羞恥した。
「やってみるかい」
「マスターがよろしければ」
ダイニングに場所を移し、二人はテーブルをはさんで向き合った。お互い肘をついたところまではよいが、しかし右腕と左腕でどうするのかと思っていると、アマリリスが当然のように、手首を返した。みずからハンディに甘んじるという、この余裕。
というより、しばらく見ない間に、彼女は明らかに「成長」していた。感情の襞が密になり、意思らしいものが芽生え始めていた。
腕が組まれた。一朗は決してマッチョではないが、それでもこうして見ると、少女らしい手が痛々しい。この小さな手が、その気になれば世界を壊滅させるほどの力を秘めているとは、とても思えなかった。
二人の手の上に、二葉が片手を添えた。生真面目に眉を吊り上げた一朗と、相変わらず表情のないアマリリス。二人の顔を見比べたあと、彼女は声を上げた。
「レディー、ゴー!」
ぴくりとも、動かなかった。
二つの手は組まれたまま、かすかな震えすら生じさせず、完全に静止していた。二人の表情も固定されたままだが、ただ、しかめ面の一朗の額に脂汗が浮き、こめかみに青筋が何本もあらわれた。
「おおおおお、ばあああっ、ざ、とおおおおぷっ!」
ついにかれは、わけのわからない奇声を発しつつ、顔を真っ赤にして涎を垂らした。かれの右腕からは、いく筋もの白い煙が立ちのぼった。おれは少女の耳もとで、溜め息まじりに指示した。
「もういいんじゃなかろうか」
「了解しました、マスター。お覚悟を」
最後の一言は、一朗に向けられたものとおぼしい。微動だにしなかった二本の腕。それが瞬く間に一朗側に傾いたかと思うと、テーブルに叩きつけられた。おれのダイニングテーブルの、これが最期だった。次の瞬間、おぞましい音が鳴り響き、まっぷたつにへし折られた天板が、床に崩れ落ちたのだ。
「がはああっ!」
どういう反動が生じたのか、一朗は壁まで吹き飛び、後頭部を激突させて白目を剥いた。そのままピンで止められたフログワームのように、四肢を痙攣させている。死んだんじゃないかと、おれは心配になったが、二葉は見向きもせず、勝者の片手を上げて祝福した。
「チャンピオン!」
余興が終わると、一朗は何事もなかったように立ち上がり、照れたように頭を掻いているが、右腕の袖がぼろぼろに焦げ、鼻血を出していた。
「いやあ、完敗です。参りました。でもおかげで、貴重なデータがとれましたよ。メモリがいかれてなければ、の話ですがね」
片目を閉じて腕まくりすると、関節に露出している何本もの細いチューブがあらわれた。皮膚の所々に金属片が嵌めこまれ、計器らしいものも覗いた。金属片の一つにかれが手を触れると、蓋が開いて、中から小型のメモリーカードが取り出された。