8(3)-9(1)
アマリリスを連れて部屋を出ると、一一〇七号室のドアの前に立った。ノックしたが、やはり返事はない。ノブを回して引いてみると、何の抵抗もなく開いた。チェーンもかかっていない。刷新の連中がピッキングしたに違いないが、まったく物音がしなかったのだから、プロの泥棒顔負けである。
玄関に靴は一足もなく、傘の類いも見当たらない。静まり返った小廊下の突き当たりに見えるドアは、ぴったりと閉ざされている。人が生活していた気配を全く感じないまま、廊下を進み、ドアを開けた。グリーンのカーテンがぴったりと閉ざされている以外、調度類は何もない。がらんとした四角い空間で、剥き出しの床が冷たい光沢を浮かべているばかり。
残り一本に火をつけるついでに、おれは身を屈め、アマリリスに囁いた。
「何か仕掛けられているか?」
しばらく辺りに目を走らせて、少女は首を振った。すると連中は、レイチェルがもうここに戻らないと踏んだのか。
台所も同様に藻抜けの殻で、食器や調理器具はおろか、ゴミひとつ落ちていない。ただ、蛇口からこぼれる水滴が、ぴちゃっ、ぴちゃっ、と、数秒おきに滴っている。覗きこむと、ガラスのコップがひとつだけ置き去りにされ、水が縁まで溜まっていた。
おれは煙草をくわえたまま、もう一つの部屋へ通じるドアに近づき、引き開けた。こちらもカーテンが閉められており、隣室や台所より、さらに暗く感じた。何もないのかと思えば、シングルベッドがぽつんと、壁に寄せられている。シーツが蒼白く目に映え、まるで病院のベッドのようだと考えた。むろん、上には誰も寝ていない。
お世辞にも趣味はよくないが、おれは掛け布団をめくって、顔を近づけた。女らしい、残り香があった。
「いったいどういうことだ。昨日まで、確かに彼女はここに住んでたんだぜ。夜逃げにしたって、手際がよすぎねえか」
と、アマリリスを相手にぼやいても仕方がない。急に息苦しさを覚えて、カーテンを半分開き、窓をあけた。鍵をかけなくても内側からしか開かないのは、おれの部屋と同じ仕組みだ。煙草の灰を落とすついでに、窓枠に肘をかけ、外を眺めた。郊外では、この雇用促進住宅が群を抜いて背が高く、ごちゃごちゃと建てこんでいる灰色の街並を見下ろす恰好。
首長連合にせよ人類刷新会議にせよ、二言目には復興復興と口にするが、その言葉は、いわば神様のいない教会の鐘のようなもの。むなしく響くだけだ。内戦状態は果てしなく続き、IBやワームが駆逐されることはない。闇商人やモグリのなんでも屋がいなければ、ヒトの暮らしは成り立たない。
むしろ「復興」など、されないほうがよいのではないかと、よく考える。長期にわたる悲惨な戦争の果てに、イミテーションボディを生み出したのは何だったのか。悪夢のような経済力と技術力の産物ではないのか。欲望が生み出したシステムの暴走……そんなものを再構築することを「復興」と呼ぶのなら、おれは願い下げである。
空はどんよりと曇っていた。市街地のほうは、さらに濃いスモッグが降りて、灰色にかすんで見えた。丘の上のビル群は、ヨーロッパの古城のように見えなくもない。ほんの半年前までは、首長が統括する企業のオフィスが占めていたガラスの塔も、今は刷新会議に接収されて、行政府と化していた。無人の監視用ヘリが何機も、まわりを飛んでいた。
ここ、BB-33地区に、最高府を置く計画もあると聞く。おれは軽く舌打ちして、最後の煙草を投げ捨てた。
9
本日二度めのチャイムが鳴ったのは、十一時二分前。兄弟で来るのかと思えば、一朗が二葉を連れてあらわれた。そのうえ人が住めそうなほど巨大な段ボールを台車にのせて、無骨なチャペックに引かせていた。帽子の唾に手をかけて、一朗が言う。
「いろいろ入用かと思いまして」
「ありがたいね。段ボールの中身は全部、煙草なんだろう?」
たちまち二葉の蹴りが炸裂した。つまらないジョークへの突っ込みとしては、ひどすぎる仕打ちである。代わりに優しい兄が、黙って一箱わたしてくれた。
「きみ、学校は?」
「創立記念日よ」
おれを一睨みして席を立ち、二葉はアマリリスの世話を焼き始めた。今日は眼鏡をかけておらず、ミリタリージャケットをざっくりと着て、ジーンズを穿いていた。髪はうしろで一つに束ねてある。
「似合ってるじゃない。このまま新東亜ホテルで働けそう。窮屈なことない?」
はい、と答えて、少女は例のスカートをつまむ仕ぐさ。
「やっぱりな。きみがアルバイトで着ていたやつか」
「少し寸法は詰めたけどね。それにしても、ここで美味しいお茶が飲めるなんて、思ってもみなかったわ」