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 新東亜ホテルのエグゼプティブ・ハウスキーパー、五十嵐冬美は、そのドアの前で溜め息をついた。夜になろうとしていた。

「ここを過ぎて、人行くところ、とわの悩みぞ、か……」

 ジョークのつもりで、一人、ダンテの詩を口ずさんでみたところで、何の慰めにもならない。この門を潜りし者、いっさいの望みを捨てよ、とは、まったく洒落になっていなかった。

 ドアはなぜか青銅製で、緑青をふいており、絡みあう草花の浮き彫りに、びっしりと覆われていた。常に鍵がかけられていた。そしてずしりと重い、古風な鍵が、彼女の手に握られており、これを持っているという事実が、彼女をますます憂鬱にした。

(ここを過ぎて、人行くところ、嘆きの街ぞ)

 彼女は本日十三回めの溜め息をもらした。

 このドアの向こうでは、恐ろしいことが起きようとしていた。

 恐ろしいこと……それが具体的に何を指すのか、彼女にはわからないし、知りたくもなかった。どこか体の奥深い部分が、知ることを拒否していた。ただ何名かの宿泊客が消え、従業員もまた何名か、消えていることは確かだった。とくに館内を歩き回らなければならない、ウェイターやメイドは頻繁に消えた。

 ゆえに、「消えても比較的問題が起きない」ウェイターやメイドが選ばれていることを、彼女は知っていた。かれらには三倍以上の給金が支払われるため、「別館勤務」は憧れの的であるようだが。それは実態が闇から闇へと葬られているという、証拠にほかならない。

 もちろん、他人事ではなく、彼女自身、いつ消えてもおかしくない立場にいた。総支配人である桑原が、別館にはまったく手がつけられないのに反して、彼女はすべての部屋の管理を一手に任されていた。常人なら、体がいくつあっても足りない仕事を、彼女は一人でこなす能力があった。

 それが自慢でもあったのだが、今となっては、自身の能力がいとわしい。この恐ろしげなドアを開け、本館と別館を行き来するのは、基本的に彼女一人なのだ。まるで地獄の門の番人のように。

 鍵を回すのに力が要った。ドアが開くときは、常に亡者の叫びのような音を響かせた。細長い通路は冷えきっていた。再生LEDの薄暗い灯り。打ちっぱなしのコンクリートの壁には、等間隔で小さな額縁がかけられていた。

 どれも、フランシスコ・デ・ゴヤの版画の複製だった。悪寒を覚えて、我知らず立ち止まった彼女の目に、一枚の暗い画面が飛びこんできた。机に突っ伏して眠る男。ぴんと耳を澄ます猫。男の周りを、わらわらと飛び交う奇怪な、無数のコウモリたち。

 理性の眠りは怪物を生む……

「やあ、忙しいところを呼びたてて申し訳ありません」

 緑色のソファにゆったりと体を沈めたまま、「夜間支配人」亜門真は、軽く両手を広げて、彼女を出迎えた。

「とりあえず、かけてください」

 目の前の椅子を指さした。かれの背後には、「専属の」若いメイドがひかえていた。美しいが、特徴をつかむのが困難な顔だち。理想的でありながら、まったく印象に残らない物腰。この娘は、冬美が唯一素性を知らないメイドだった。名目上は、亜門が個人的に雇っている秘書扱いなのである。よってホテルに履歴書を提出する必要がない。

 どんなに浅くかけようとしても、ソファはずるずると、身を奥に引きずりこむようだ。彼女の困惑を楽しむように、亜門は正面からじっと見つめていた。桑原なら、決してこれほど無遠慮な視線を寄こすまい。彼女を椅子に座らせたことさえ、なかったかと思う。

「きみの意向を聞かずに申し訳ありませんが、わたしの一存で、メイドを一人、新たに雇うことにしました」

「わかりました。そのように、手続きいたします」

 我ながら急き込んだ返答だ。そう思ったが、この生きもののようなソファから逃れたい一心でこたえていた。しかも、笑みを含んだ亜門の眼差しに射すくめられている状態は、あやしげな快感と決して無縁ではなかった。

「まあ、そう固くならず、くつろいで結構。いまお茶を淹れさせますから。なに、雇うといっても、その子はまだ学生でしてね。冬休みの間だけの短期間となります。最近別館に配属された、八幡という娘を覚えていますか? じつは彼女の学友らしのですが」

 冬美はうなずいた。現在雇っているメイドの一人一人なら、ファイリングされているように、思い浮かべることができた。八幡二葉。高校生。少々浮ついたところはあるが、極めて有能……いかにも楽しげに、亜門は続けた。

「鳥辺野霞美という娘なのですが、少々事情があるようでしてね。まとまったお金が必要だとか。そこで八幡二葉ともども、『あの部屋』の専属にしようと考えております」

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