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「このBB-33地区で治外法権がまかりとおるのは、『幽霊船』とこのホテルくらいのものだ」
きびすを反しながら、桑原光三郎は忌々しげにつぶやいた。
四六歳。痩せた体躯を一点の隙もない高級スーツで包み、靴は光源が仕込まれているのかと疑われるほど、ピカピカに磨き上げられていた。刈り込んだ頭髪の前髪を少しばかり、わざと残して額に垂らし、よくこれで用をなしていると感心するほど細いフレームの眼鏡をかけていた。
シャープな口ひげ。尖り気味の鼻。演劇的に洗練された一挙手一投足は、三文小説から切り抜いた「総支配人」の挿絵そのまま。
「きもはそう思わんかね?」
床に硬い靴音を響かせながら、定規で引いたような直線で十五歩。再びきびすを反したあと、五十嵐冬美をかえりみた。エグゼクティブ・ハウスキーパー。三六歳。年齢が機械的に加算されることが何としても許しがたく、自身ばかりは二九歳で時間が止まっているのだと、半ば本気で信じていた。
その信念が功を奏してか、彼女はたしかに若くみられた。数多いメイドたちの総指揮者ともなれば、スーツの着用が許されるのだが、彼女が頑なにアルバイトが着るのと同じメイド服にこだわるのは、これが最も自身を若くみせることを知っているからである。
メイドたちは影で五十嵐冬美を長たらしい肩書きを略した「EH」、もしくは「メイド長」と呼んでいた。
「そう思いますわ」
つとめて無感動に答えたつもりが、皮肉な調子が加わった。口もとに皺が出たのではないかと思うと、そちらのほうが悔やまれた。桑原は目を細め、神経的に微笑した。まるで口もとの皺を笑われた気がして、冬美はひそかに眉をひそめた。
「やつの肩書きを知っているだろう」
「夜間支配人です」
「さよう。副支配人ですらない。たかだか夜の番犬に過ぎないわけだ。いや番犬ならまだ可愛げがあるが、やつはならず者だ。本来なら、とっくに銃殺されていてもおかしくない。そんな極悪人がだよ、総支配人であるわたしを差し置いて、我が物顔でのさばり歩いているのだからな。これを治外法権と呼ばずして何であろう」
この男は、いったいわたしにどんなリアクションを求めているのだろう。
五十嵐冬美は、硬い表情のまま思案した。ある意味、なぐさめてほしいのは確かだろう。けれど、ここで月並みに笑ってお世辞を言ったところで、この気難しい男は不貞腐れるだけ。かえって、ばかにされたと考えるだろう。複雑なこの男の気質が読めればこそ、今の地位までのぼり詰めた彼女である。
「あの一角だけ、ずっと夜なのではありませんか」
桑原は、七歩あるいて足を止めた。機械的な往復を止められたことが不本意であるかのように、視線をけわしくし、演技的に眼鏡を持ち上げた。
「きみは何を言っている?」
「表からも、わざと見えないように建てられております。本館からも、基本的に入れません。ただでさえ少ないどの窓も、厚いカーテンがおりて、中にいる者は塔の中に幽閉されているようです。新東亜ホテル別館は、闇に閉ざされた塔。永久に夜が続く塔なのです」
さすがに桑原は面食らった様子。今度は演技ではなしに眼鏡を持ち上げて、目を三度、大きくしばたたかせた。
沈黙の中、遠くの話し声が聞こえ、やがて遠ざかる。国内随一の超高級ホテル。その総支配人の執務室はあっけないほど狭く、楽屋裏のわびしさをかもしている。トラック一杯ぶんはありそうな無数のファイルを、けれど桑原は神わざに等しい手腕を発揮して、整理整頓していた。アンティークの調度を並べる余裕さえ持たせて。
「失礼ながら、きみの詩は少女趣味が過ぎるよ」
舐めまわすような視線を感じた。
桑原が彼女の体を欲しがっていることは、もちろんとうに気づいていた。けれどこのホテルでは、従業員どうしの性交渉はおろか、恋愛もかたく禁じられていた。メイドやボーイでさえそうなのだから、まして総支配人ともあろうものが、エグゼクティブ・ハウスキーパーに指一本触れるわけにはいかないのだ。
人間とは奇妙な生きもので、抑圧されればされるほど、性欲を陰火のように燃え上がらせる。桑原は冬美の肉体に触れることができない不自由さを糧に妄想を育て、無限に膨らませているようだ。妄想の肉体を視線でなぶり、陰火の中で犯すのだ。
「ありがとう。もう下がってよろしい」
「失礼いたします」
廊下に出た彼女は、暗い勝利感に酔った。