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「はい、マスター」
煙草を口の端にくわえたまま、ニヤリとサムアップしてみせた。
たちまち背後で不穏な音が響き、バンパーその他がもって行かれた模様。リアウインドウが砕け散る音を聞きながら、いやというほどハンドルに額をぶつけた。おまけに吐き出した煙草がズボンを焦がすという踏んだり蹴ったり。ちょっとカッコつけたとたん、すぐこうなるのだ。
「何度このセリフを言わせるんだ、くそったれ!」
衝撃を緩和しつつ、前方の障害物をすれすれでかわす。これほど悲鳴を上げながら、八幡兄弟特性のタイヤは、まだまだ路面に食いついてくれる。
「後ろから第二波、きます」
「解説ありがとう。わかっちゃいるけど、よけられないってね」
屋根が奇麗にすっ飛んで行った。とっさに首を縮めなければ、怪奇・首なしドライバーができあがるところ。オープンカーと化した車内に、風がすごい勢いで吹き込んでくる。こんなことなら、鳥辺野爺さんの飛行帽とゴーグルを、形見にもらっておくのだった。
アマリリスは相変わらずきちんと前を向いたまま、風が髪をなぶるにまかせていた。対面した当初は幼く感じたが、髪が伸びたせいか、その横顔はどこかおとなびて見えた。
「マスター、前を」
封鎖された道路の終わりを告げるバリケードが、面前にせまっていた。
「うわあああああっ!」
いつもなら、わずかな隙間を徐行してすり抜けるるところ、めちゃくちゃにカッ飛ばしながら、あらぬ角度で突っ込んでゆく。ボタンひとつで翼が生えるとか、せめて二葉の靴みたいなバネ仕掛けがあればよいのだが。アマリリスに伏せるよう促し、アクセルを全開にする以外、どうすることもできなかった。
フロントグラスが粉々になり、ドアごと側面の板金を剥がされた。それでも奇跡的に突破できたが、たちまち市街地の中へ放り込まれ、今度は電柱や街路樹や対向車が、めまぐるしく入れ替わりながらせまってきた。
「本日三度めの、くそったれ!」
ブレーキは完全にイカレていた。イカレ車は猛スピードで通行人を踊らせ、露店に山積みの果実をぶちまけ、クロック鳥の群れを飛び上がらせた。こんな所で人を殺したくないので、公園に突っ込んだ。さいわいにも閑散としており、たった一人で遊んでいた五歳くらいの男の子が、滑り台の上から、ニコニコと手を振った。
アマリリスが無表情のまま、小さく手を振り返した。
公園を駆け抜けると有刺鉄線をつき破り、酸素供給用の緑地帯へ突入した。ガキの頃熱中したアーケードゲームの画面のように、太い幹が次から次へと立ちふさがる。幹をよければ潅木があらわれ、生い茂る葉の中へ顔を突っ込む恰好。そこをねぐらにしている鳥たちが驚いて羽ばたき、おれの鼻をくすぐった。
おかげでだいぶスピードが弱まったので、ハンドルを放棄して、アマリリスの上に覆いかぶさった。十トントラックと正面衝突しても無事かもしれない、超兵器をかばうのもナンセンスだが、少女はされるにまかせていた。コケに覆われた鱗状の太い幹がせまるのが、目の端にちらりと映った。
派手な音がしたわりに、たいした衝撃はなかった。小枝がばらばらと降りそそぎ、それが止むと静かになった。エンジンは完全に停止しており、爆発の危険はなさそうだ。おれたちは身を起こし、顔を見合わせた。たちまちアマリリスがくるくると目をまるくして、おれの頭を指さした。
アフロヘアになっていても不思議はない。探ってみると、何か軽いものが手の甲に飛び乗る感触。腕をおろして見れば、小型の齧歯類と鉢合わせになった。ハシバミの実のような瞳でおれを見上げ、キッ、と小さく鳴いて、身軽に逃げ去った。おれが声を上げて笑ったのは、そいつの顔がさっきのアマリリスの表情とそっくりだったからだ。
シートにもたれ、煙草に火をつけた。静かだ。鳥の鳴き声が梢をわたり、木の実が朽ち葉の上に落ちるたびに、小人の足音のような音をたてた。
「ピエロはまだ追って来ているか」
「確認できません」
当然だろう。あれで市街地まで乗り込めば、さすがに当局が黙ってはいまい。ちなみに人類刷新会議は軍隊をもたない。有能な武装警察が代わりをつとめている。首長たちの強大な私兵でさえ、クーデターの折にはまったく役にたたなかった。それは軍事力という旧来の概念の衰滅をも、意味するのかもしれない。
愛車はハンドルとタイヤとシートと、それに剥き出しのエンジンだけの姿となり、見事な立ち往生をとげていた。今日はみょうに機嫌がよかったのは、いわゆる、ともし火が消える直前の輝きだったのだろうか。おれはハンドルに手を触れて、名前をつけておかなかったことを、また軽く後悔した。