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64(3)

 沈黙の中で、鹿の首を見つめている自分にようやく気づいた。しかしなんというわかりやすい例えだろう。たしかにおれは、黒木と相崎博士が愛人関係にあると疑ったことなど、これまで一度もなかった。

「鳥辺野の口ぶりでは、そのジュリエットという人は、竜門寺武留に殺されたかどうかしたようですが」

「歯切れがよくないね」

「単に殺害されたのなら、爺さんだって、あんな言い回しはしないでしょう」

 相崎博士は答えず、すっかり冷めたコーヒーに角砂糖を三つも放り込んだ。スプーンで掻き回す手つきさえ、かれがやると邪悪な実験のように思えてくる。

 答えを待ちながら、心のどこかに、聞くことを拒否したがっている部分があった。かれが口を開いたとたん、思わず耳を覆ってしまいそうなほどに。

「もうひとつの柱については、訊かなくてよいのかね」

「柱……? ああ、IBの進化論だけでも、うんざりなんですがね。そいつに匹敵するほどの悪魔的な研究が、ほかにまだあるというんですか」

 話を逸らされたが、癪にさわるどころか、情けないほど安堵していた。博士は目を伏せたまま、溶け残った砂糖を確かめ、口もとにゾッとするような冷笑を浮べた。

「キュノポリスの噂を聞いたことがあるかね」

 うなずく代わりに瞼が震えた。イズラウンの廃墟に眠る伝説のひとつだ。壁が話しかけ、椅子が歌い、電灯が笑う。麻薬中毒者の幻覚か、ブルトン前派の絵画作品と代わりがない。あるいは狂った吟遊詩人あたりが広めたであろう、戯言に過ぎない。

 生きている都市の伝説。

「まさかあの爺さん、そんなものを本気で研究していたのですか?」

 うなずく代わりに、博士は爪でカップの縁を軽く弾いた。神経にこたえるような音が響いた。

「冗談じゃない。狂気の沙汰だ。変わり者だとは思っていたが、本物の狂人だったとは!」

「きみがそう信じたいだけじゃないのかね。鳥辺野は民俗学者さながらに、イーズラック人と接触していたよ。かれらがイズラウンのロストテクノロジーを部分的に継承しているのは、ご存知のとおりだ。ついでに言うと」

「なんです?」

「ジュリエットもまた、イーズラック人だった」

「……それで、まさかとは思うが、キュノポリスが実在した証拠を得ていたなんて言わないでしょうね」

 博士はうなずいた。

 どちらともとれるが、この場合、肯定を意味するのは明らかだろう。精神科医に悪夢の解説を頼むつもりが、ますます暗い深みへ引きずり込まれてしまうとは。頭を掻きむしりたい思いで顔を上げると、いつのまにか博士のかたわらに、黒木が立っていた。

 足音どころか、気配すら感じなかった。亡霊に行き逢ったようにのけ反るおれを、冷たく見下ろしたまま、相変わらず彼女は一言も発しない。

「アマリリスの調整が終わったよ。安心したまえ。交響曲は聴こえなかった」

 博士はそう言うと、カップを持ち上げ、ざらざらする液体をひと息に飲み干した。やはり変態である。

「すぐ行きます」

「まあ落ち着きたまえ。彼女はまだ裸だ。培養液にまみれた体で、きみに対面したくはないだろう」

 これまで何度も、培養液の中で苦悶する少女を見舞っているのだが。おれは口ごたえせず、再び腰を落ち着けた。黒木が立ち去り、残された二人の男は、黙々と煙草をふかした。たちこめる紫煙の中で、柱時計の振り子が何往復しただろうか。

「やはりうれしいかね?」

「まあ、保護者のようなものですから」

「彼女は少し成長したよ。むしろ、進化と呼ぶべきかもしれんが」

「その言葉は……」

 背後でドアが開く音がした。思わず言葉を呑んで、顔を向けた。黒木の後ろから、少女が部屋に入ってきた。

 新東亜ホテルのメイドの恰好をして、小さな二つの拳で、自身のスカートをぎゅっと握っていた。

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