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「ちょうどよかったよ。最終的なチェックに手間取っていてね」
鹿の首が壁にかけてある、あのお世辞にも趣味のよくない部屋で、相崎博士は言うのだった。
「そんな情けない顔をする必要はない。念には念を入れてというやつだ。それもほとんどコンピューターがやってくれておる。我々はただ座して待つのみさ」
「もし異常が見つかったら?」
「ブザーが鳴るかわりに、第九の第一楽章が聞こえてくるだろう」
とてもよい趣味とは言えない。
たった今、助手の黒木がコーヒーを置いていったところだ。今回はまともなカップに入っており、よい香りのする湯気をたてていた。
彼女は相変わらず「看護婦」をおもわせる恰好をしており、相変わらず一言も喋らなかった。ともあれ、黒木まで給仕にあらわれたのだから、さほど重大なチェックではないという、博士の言葉を信じてもよさそうだった。
八幡兄弟のガレージを素通りして、二階に居候している博士の研究室へ来たのは、初めてかもしれない。かれは長身を斜めにソファに折りたたみ、ひょろ長い足を、窮屈そうに組みかえた。チェックのベストに蝶ネクタイ。パイプをくゆらせるさまも、白衣が肩に引っかかっていなければ、某麻薬常習者の名探偵そのままである。
おれはカップを持ち上げた。むろん、純度百パーセントではなかったが、身に染みるうまさ。思えばアマリリスが去ってから、まともなコーヒーを飲んでいなかった。
「ちょうどよかったといえば、おれもあなたに、尋ねたいことがあったかもしれません」
「はん」
博士の口から、紫煙が盛大に吐き出された。やはり、似ている。皮肉っぽい動作も、芝居がかった口調も。「幽霊船」の底では、まだ二人を結びつけるには至らなかったのだが。
「先日までぼくがどこで何をしていたか、おおよそのところはご存知ですね」
日頃、ワットが押しつけてくる大仕事は、八幡兄弟のバックアップなしではとてもこなせない。八幡兄弟はまた、相崎博士の頭脳から恩恵を得ている。この言語道断な変人に、二階をまるごと提供してかくまっているのは、かれらが共存共栄の間柄だからだ。あたかも、縞入りワームと蝕虫の関係のように。
ゆえにおれの行動は、八幡ブラザースを通して、まず博士に筒抜けと考えてよい。案の定、かれはパイプをくわえた辺りを、ニヤリとゆがめた。おれは尋ねた。
「トリベノ、という男をご存知ですね」
「よく知っておるよ」
煙を吐きながら、心なしか博士の表情が苦痛をおびたように映った。かれは語を継いだ。なぜ唐突に、おれがトリベノの名を持ち出したのか、尋ねようともせずに。
「きみが鳥辺野秋嗣のことを言っているのだと仮定してだが、旧友というやつだな。学友、もしくは悪友と言い換えてもいいが。学生時代の同期だよ」
かれの学生時代の世の中がどんなふうだったのか、すぐにはイメージできない。首長連合が比較的安定した統治を確立するまで、かなり長い昏迷が続いており、その間を「シュトルム・ウント・ドランク」などと呼んで、ひとくくりにする場合が多い。疾風怒濤の時代、といった意味あいか。
当時の大学もまた、ひとつの排他的な政治勢力だったといわれる。大学そのものが、小さな独立国と化していたのだ。魑魅魍魎のごときOBや院生が塔の上に巣食い、理事や教授連をマリオネットにして、自治権をほしいままにしていた。そんな大学ごとに、方言とも呼べる独特な話しかたが生じた。
トリベノ……いや、鳥辺野秋嗣と相崎博士の身ぶりや話しかたが似ているのも、そのせいであるらしい。
「若すぎたんだなあ。こう言うと、きみは笑うかもしれんが、我々は若すぎた。若すぎるがゆえに、道を誤ってしまう。しかしきみ、何ゆえに神は、若者に分別ではなく、血気を与えたもうたのだろう。道を誤ることは目に見えていながら、なぜあえてそう進ませようとしたまうのだろう」
「あなたの口から、神の名が飛び出すとは思いもよりませんでしたよ」
「神すらも、実験室で造りだそうとする男……きみの目に、ワガハイはそう映っておるのだろうな。たしかに、宇宙のマリオネットたらんよりは、宇宙をも操る人形つかいになりたい。多かれ少なかれ、科学者どもの頭の中には、そんな不埒な考えが巣食っておるよ」
「とくにあなたの頭の中には、でしょう?」
博士は苦く笑いながら、パイプを灰皿の上で逆さにした。火皿を打ちつける音が二度、硬く響いた。
「その傾向が強かったのは、ワガハイよりむしろ、鳥辺野秋嗣のほうだろう。我々がタモトを分かった原因もそこにある」