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合成ビールが意想外に効いたのか、明け方近くに少し眠り、気がつけば九時に近かった。
しゃっくりするようなシャワーを使い、久しぶりにカーテンを開けた。相変わらず空はスモッグで覆われているが、慌ててカーテンを半分閉めたほど、闇に慣れた体に、陽光は耐えがたかった。
闇を食むワームどもが蠢く「幽霊船」の地底より、明るい朝のほうがつらいのは、どういうわけだ。ワーム殺しの仕事をしているうちに、おれの体質はかれらに似てきたのかもしれない。あえて古くさい言い回しをすれば、ワームどもの呪いによって。
無精ヒゲには頓着しないが、それらがあからさまにヒゲらしい存在感をおびてくると、我慢ならなくなる。けれど、いつになく入念に剃刀をあてている自分に気づいたときは、曇った鏡の前で苦笑せずにはいられなかった。鼻歌まで歌っていたのである。
アマリリスがよく口ずさんでいた、ワーグナーの『タンホイザー』序曲を。
半地下の駐車場へおもむき、廃車の列を抜ける。オイル臭の淀んだ闇が、奇妙な安堵感と繋がっている。
(レイチェルは、車を持っていたのだろうか)
ふとそんな考えが浮かんだ。ぶつけない腕か、ぶつけても気にしない心臓さえあれば、どこへ停めるのも勝手次第。管理人など見たこともない。レイチェルがここに車を乗り入れ、同じ車で去って行ったとしても、鉢合わせでもしない限り、知るよしもないのだ。もっとも、彼女がネオ・メルセデスのピカピカ光る装甲つきを乗り回していたのなら、話は別だが。
スクラップ同然の愛車は、まず盗まれる心配がない。また、廃車のほとんどからエンジンを抜かれているが、愛車はガスで走るうえ、八幡ブラザースのオリジナリティあふれる細工がほどこされているため、よほどの専門家でない限り、どこにエンジンがあるのかわかるまい。
冷たいシートに身を割りこませ、キーを差し込んだ。動くか動かざるか、それが疑問だった。
走るスクラップ。と、いつか二葉が言っていたっけ。動いているだけで驚嘆に値するという彼女の意見は、珍しくおれの見解と一致していた。
さてお祈りでもすべきか。なにしろ、汚染地帯に隣接する「幽霊船」の近くで、数日路上駐車していたのだから、奇跡的に乗って帰れたものの、もう一度エンジンがかかる確率は依然、限りなくゼロに近い。
おれはシートに沈みこみ、煙草に火をつけた。ライターの火をともしたまま、箱に描かれたタコの化け物を照らし、舌打ちして火を消した。アリーシャのことは思い出したくなかった。忘却こそが、神が人間に与えた最大の恩恵である。昔の作家が、そんなことを言っていた気がするが、忘却に頼らなければ耐え難い記憶が、あまりにも多い。
薄闇に漂う煙を、ぼんやりと見つめていた。記憶をむりやり封じこめたあとの、ヘビイな倦怠に身をまかせて。
(やっぱりわたし、船に残るから)
別れぎわ、カノウ・マキはそう言った。
父母の思い出の染みこんだ船とともに、朽ちてゆくのだという。おれには何も言えなかった。過去に生きることが正しくないと誰に言える? 記憶を風化させる以外、なす術もなかった、腑抜けた男に何が言える?
(これでもだいぶ迷ったのよ。エイジについて行きたい。この朽ちかけた怪物の腹から逃げだしたい……もちろん、逃げることを否定するつもりはない。時に逃げるためには、踏みとどまるより多くの勇気が要るわ。でもね、エイジ。わたしはたぶん、船の一部なのよ。わたしの父と母が、そうであったように)
船から切り離されては生きられない、と彼女は言った。
唇が触れ合う程度の、軽いキスを交わした。七年前の少女そのままの、はにかんだ笑顔がそこにあった。お互いに「さようなら」は言わなかった。
バイク便の黒竜が手紙を届けたのは、船から生還した翌々日だったか。
差出人のない、粗悪な再生紙の封筒をやぶくと、うって変わって真っ白なレポート用紙があらわれた。ミッションの初日以来、ついに顔を合わせなかった、アルチュール・ランボー氏からの報告書だった。詩人になりそこなったわりに、几帳面な男だ。
当然といえば当然の話だが、「幽霊船」に巣食う麻薬密売組織は、忽然と消滅したらしい。「イーズラック人」の姿は、船内にまったく見られなくなり、死体は今のところ一体も発見されていない。また、かれらが消える直前に起きた原因不明の地震と、シャングリ・ラにおける奇怪な地盤沈下のことを、ランボー氏は書き添えていた。
バルブついては、一言も触れられていなかった。
ジークムント旅団および竜門寺武留に関する報告もない。地震と、それにともなう地盤沈下によって、おぞましい秘密は瓦礫に埋もれてしまったのだろう。トリベノの爺さんと黒猫のプルートゥ、そして……
アリーシャとともに。