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「さあ、どうしてそう思ったの?」
強いて冷静に返しながら、こめかみを伝う冷たい汗を意識した。非情に、よくない。
出会い頭に名を言い当てる行為は、かなり有効的な先制攻撃といえる。こんな場合、「質問には質問で返せ」と教えてくれたのは、どこかのしがない何でも屋だっけ。
質問に質問を返され、多少なりとも、ガスマスクたちはひるんだようだ。動揺が無数の翅音をおもわせるざわめきとなって、冷えた空気を震わせた。マスクの排気孔から、白い息がしゅうしゅうと洩れた。
「鳥辺野霞美から何を頼まれた?」
「あなたたち、あの子の知り合い? とてもお友達には見えないけど」
金属的な、まがまがしい音が響いた。ゴム状の手袋に覆われていた、ガスマスクたちの指がすべて二倍に伸張し、鋭い円錐形に変化していた。見覚えのない武器だ。
かれらは類人猿のように腰を曲げ、爪の先が石畳に接するほど低く身構えた。キッ、と音が鳴り、火花が弾けた。これもよくない。銃口を向けられるより、ずっとタチがよくない。思うにかれらは、一種の隠密行為を専門に行うスパイではあるまいか。盗聴、盗撮、窃盗、破壊、放火、暗殺などをもっぱらとする、スパイの中でも最もラディカルな集団。
そんなものは、世界的にも事例が少ない。日本の伝説におけるニンジャをのぞけば、ツァラトゥストラ教過激派の親衛隊くらいか……
「ちょっと待ってよ。だれも答えないとは言ってないでしょう。お金のことで相談されただけ」
「金だと?」
「そう。百万だか百五十万だか、どうにかならないかって。もちろん、どうにもならないと答えたわよ。それだけ」
通らせてもらうという意思表示のつもりで、一歩踏み出した。石畳を引っ掻く、鋭い不協和音が鳴り響き、二葉は動きを止められた。やはり、プロだ。
「なによ。もう用はないはずよ」
「これ以上、鳥辺野霞美と接触してはならない。おまえたちが、常に見張られていることを忘れるな」
「ふぅん。皆さん、女の子を覗き見するのが趣味なんだ。べつにいいんじゃない? 男として当然の欲求だと思うわ。知らない間に覗かれるだけなら、こっちは痛くも痒くもないし。でもね、わたしが誰とお喋りしようと、そんなのは、わたしの勝手!」
再び無言の威嚇。そう来ると身構えていたので、今度は彼女はひるまなかった。別のガスマスクが言う。
「従う以外の選択肢は与えられない」
最初に口を開いた男よりかん高い、どこか外国訛りのある声だ。もっとも昨今では、どこからどこまでが「日本人」なのか、だれにもわからなくなっているが。鞄の取っ手に力を籠めながら、二葉は皮肉らしく口の端をゆがめた。
「ノーと言ったら?」
「従うことを、体で覚えてもらう」
「このド変態!」
取っ手を握り込んだ。スイッチが入る、確かな手応え。古風な学生鞄がたちまち解体され、立体パズルのように細分化された。革張りの表面が裏返ると、黒い金属があらわになった。取っ手は握られたまま引き鉄へ続くグリップと化し、その上に太くて短い筒状の砲身となってパズルが再構築された。
いつぞや「人食い私道」で彼女が用いた、風砲である。
トリガーを引く前に、拡散レバーを最強に引き上げておくことを、彼女は忘れなかった。
「ニンジャごっこは終わりよ、ベイビイ!」
前方にいた三人のガスマスクが、たちまち吹き飛ばされた。最初に口をきいた男は、爪で地面にしがみつこうとしたが、石畳ごともぎ離された。新東亜ホテル別館への移動が決まってから、なぜか一朗が大急ぎで作ってくれた新型だが、思わぬところで役にたった。
あまりにも想定外のできごとに、背後の二人はさすがに、瞬時、我を忘れたようだ。かれらが体勢を立て直す前に、二葉の靴底からは、何本かの強力なバネが排出されていた。むろん彼女の体はすでに高く舞い、人工衛星の泳ぐ夜空の下でシルエットを描きながら、三名のガスマスクの頭上を跳び越えた。
街路を滑走し、人通りのあるところへたどり着くまで、三分もかからなかった。ローラーをおさめ、自販機にもたれてひと息ついた。見れば、靴はぼろぼろに焦げて、黒い煙を吹いていた。レモンティーのプルタブを引き開けながら、彼女はつぶやいた。
「鳥辺野霞美……か。俄然、興味が湧いてきたんだけど」