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(覚えておいてね、エイジさん。女が隠れて何かするときは、必ず浴室を使うものよ)
モニターに映しだされているのは、隣の寝室である。いつぞや、二葉が仕掛けた監視カメラは、まだ生きているらしい。映像は極めて不鮮明だが、赤外線によって、ものの形は見分けがつく。借り手のつかない倉庫のように、がらんとしていて、空っぽのベッドに人が寝た形跡はみとめられない。
水の音はもう聞こえない。
やはり幻聴だったのだろうか。だいいち、隣でシャワーを使う音が、ここまで聞こえたためしはない。
モルモットに添えた手が、少し震えていることに気づいた。アイコンをクリックして、カメラを切り替えた。
闇。
故障しているのだろうか。それとも、何者かが、向こうから掌でレンズを押さえているのか。戦慄が背筋を貫く。やがて月蝕が終わるように、闇は少しずつ、蒼みがかったグレーに溶かされてゆく。
白い、大量の火花が盛んに吹き上げている。工業用カッターに似た円盤が回転している。どこかの古びた工場だろうか。そもそも、隣の浴室に仕掛けられているはずのカメラが、なぜこんな映像を送ってくるのか。
それとも、すべておれの幻覚か。
甲殻類の脚に似た、無数のマニュピレーターが天井から垂れ下がり、餌を漁るように蠢いている。何を作っているのだろう? 解剖台とベルトコンベアーを組み合わせたような台の上に、何かが載っているが、火花がひどくてなかなか確認できない。不条理を忘れて、おれは考えこむ。本当に何かを「作って」いるのだろうか。
火花がいっそう激しくなり、ハレーションを起こしたように、モニターの中が真っ白になる。再び画面がグレーに蝕まれてゆくと、解剖台の上に横たわるものの形が、今度はおぼろげにわかる。女だ。すらりと均整のとれた、白い肢体。よく見れば無数の金具が、彼女をリベットで台の上に拘束している。
ベルベットのように広がる、長い黒髪。彼女は、眠っているのだろうか。瞼は閉ざされたまま、身じろぎひとつしない。粒子が粗いためなかなか確認しづらいが、おれは彼女を知っている気がする。
一瞬火花が止んだのは、円盤を取り替えていたためらしい。さらに大きな円盤が、さらに高速で回転しながら下りてゆき、彼女の肩の上で火花を吹き上げる。「作って」いるのではない。解体、もしくは破壊しようとしているのだ。彼女は目を見開き、音のない世界で絶叫した。
(レイチェル……まさか!)
砂状のノイズが画面を覆っていた。
あとはどれほどモルモットをクリックしても、キーを叩いても、映像はあらわれなかった。おれはコンピューターの電源を落とし、煙草に火をつけた。
偶然に無関係な電波を拾ったのだと考えるのが、最も妥当な解釈だろう。親孝行横丁で上演されていたような、いかがわしい映画のたぐいを。テレビジョンはまだ刷新会議によって封印されたままだが、モグリの個人放送局がいくつもあると聞く。それとも、やはりおれの頭がいかれちまったのか。
長く、煙を吐いた。狂気がみせた映像にせよ、何にせよ、不鮮明な画面の中の女を、なぜおれはレイチェルだと思ったのだろう。監視カメラで彼女の部屋を覗いているという先入観はあったものの、見たとたん強く確信した理由がわからない。
彼女の肌は、工業用カッターで切りつけられても破れなかった……
煙草を揉み消し、机の引き出しを漁った。八幡兄弟がこしらえた隣の合鍵は、まだそこにあった。結果から先に言えば、レイチェルはおろか、隣にはだれもいなかったのだ。荒らされた形跡もなく、残り香さえ感じられない。浴室は乾ききっており、うっすらと埃が積もっていた。
部屋に戻ると電話が鳴っていた。
そこでようやく時計を確認する気になった。午前四時十二分。友好的な電話をかけてくるのに、常識的な時間とは呼べない。思案している間も、ベルは止まない。さっきの奇怪な映像のこともあるので、おれはそっと受話器を持ち上げ、耳にあてた。レイチェルではなかった。
「ごきげんよう」
瞬時、瓦礫の下に埋もれているであろう、ある男の顔が浮かんだ。血まみれのかれが電話をかけているという、三流怪奇映画的な絵が。
「やはり帰っておったようだな。ちょうどいい。夜が明けてからでも構わんから、ワガハイのところに来てくれたまえ」
「相崎……博士?」
「はん。よくご存知の変態博士だよ。ワガハイ同様、きみには夜も昼もなかろうからな、さっそく報告させてもらった次第だ。先ほど、アマリリスの調整が完了した」