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しかし千五百万ならともかく、百五十万程度であれば、オトナが工面できない金額ではあるまい。おそらく二葉が泣きつけば、兄たちはポンと出してくれるだろう。いわんやお嬢さまにおいてをや。
「いっそ、パパに頼んじゃえば? 自分でなんとかしようなんて、考えるだけ時間の無駄だと思うよ」
口に出してから、悔やむ気持ちがわいた。霞美の「家庭の事情」について、彼女は何も知らないのだ。高級住宅地に住んでいるからといって、大金持ちとは限らない。現に、霞美が見る間にしおれるのが、手にとるようにわかった。
「悪いこと言っちゃった?」
「いえ。わたしのほうこそ、相談しておきながら、こんなことを言うのも失礼なんですけど。今はまだ詳しい理由は話せないんです」
唇を噛んだ。それでもひたむきな眼差しが、じっとこちらへ注がれていた。さっきまでの印象と異なる、意外に気丈な一面を覗いた気がした。
「事情は人それぞれでしょうから、別にいいよ。ただ、情報が多いほうが、対策をよりたてやすくなることは、わかっているよね」
溜め息まじりにそう言った。恐縮するかと思えば、霞美の顔が、喜悦に輝いた。
「相談にのってくださるのですか?」
「無意識にやっているのだとしたら、あなた、天然の策士だわ」
「そんなつもりは……」
二葉は立ち上がった。ぽんと埃を払うついでに、スカートの皺を直した。
「ちょっとこれから用事があるの。話の続きは後日ということで。あと、もしわたしのほうで、勝手にあなたの秘密とやらを知ってしまったとしても、恨みっこなしにしてもらえる?」
まるで金を工面できたかのように、何度も礼を言って立ち去る霞美を見送ったあと、彼女は二つめの溜め息をもらした。両手を軽く広げて、肩をすくめた恰好。
「いやね。だれかみたいで」
千里眼は相変わらずそこにいた。
権力者たちの目を逃れて、こんな所に巣食っている男だ。ある日突然姿を消しても、何の不思議もない。少しホッとしながら、ガラクタ山の頂上に陣取っている異様な男を見上げた。
「やあ。レモンティーはいかがかな」
「いただくわ」
廃棄物としか思えない自販機のボタンを押す。ごとりと音がして、熱いレモンティーの缶が転がり出た。やはり現存しない銘柄だが、このまえ飲んだものとはまたデザインが違う。プルタブを引きながら、「いつもの席」についた。用途の不明な金属の箱で、わずかに帯電しているが、腰をおろすにはおあつらえ向き。
「話はすべて聞かせてもらったよ」
甘酸っぱい液体を口に含みながら、ちょっと肩をすくめた。今さら驚く気にもなれない。
大きなヘッドホンとゴーグルで、かれの顔半分は覆われている。幅広のヘッドバンドから、蓬髪が食み出している。顔の下半分は卵のようにのっぺりとして、始終浮べている笑みは、皮肉らしく歪むのだ。二葉は訊いた。
「あの子、何者なの?」
ゴーグルの表面が光を浮べ、砂状のノイズがちらちらと揺れた。マイクらしきものはどこにも見当たらないが、かれの声は電気的に処理されているような、ひずみをおびた。
「鳥辺野霞美。戸籍との一致を確認。各種ワクチンの接種更新済み。身長172センチ。体重51キロ。バストは……」
「興味ない。どうせわたしの1.5倍くらいでしょう」
「せいぜい1.24倍さ。住所はR8c-MB45-TYF632。おっと、これは当局の監視用データだった。俗にいう、コトホギ坂だね。そこそこに裕福な家が建つ区画だ。家族構成は両親と使用人二名。家事用チャペックが二体に、犬が一匹」
「そこそこに、幸福そうだわ」
「父親の鳥辺野博嗣は第三大学の教授だよ。専門は機械遺伝学……おや、眉をひそめたね。お察しのとおり、研究するだけでしょっ引かれそうな、禁断の学問さ。ただ博嗣氏は、敬虔な学徒で通っており、当局のお目こぼしにあずかっている。人徳というやつだね」
某所の二階の変態博士とは正反対の人物像を、思い浮かべればよさそうだった。