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八幡二葉に新しい友達ができたのは、冬休みに入る直前だった。
半年以上、同じクラスにいながら、その少女とは、ほとんど話したことがなかった。だから放課後、密かに屋上へ向かうつもりで教室を出たあと、階段の踊り場で呼び止められた時には、さすがの彼女も、少しばかり飛び上がりかけた。
(わたしに気配を感じさせずに、あとを追うなんて……)
しかし考えてみれば、その少女は教室にいるときも、極めて影が薄いのだ。もともと気配が希薄な子なのだから仕方がない、と、彼女は自身を納得させたものだ。
「びっくりしたあ。わたし、また呼び出し食らっちゃったかしら」
教師からの言伝を頼まれたのだと考えたのだ。それ以外に、この名前すら思い出せない子に呼び止められる理由は、思いつかない。
事実、無断欠席の常習犯である彼女は、職員室の常連客でもあった。ほとんどの教師が二葉の顔を見知っており、彼女が入ってゆくと、かれらのほとんどが好意的な眼差しを向けた。担任でさえ、たてまえ上、苦虫を噛み潰してみせるに過ぎなかった。
なんといっても、彼女は成績がよい。学費もきちんと納めている。常に身なりも整っているし、はきはきとものを言う。兄たちが自宅で、少々いかがわしい商売をしているという噂だが、両親を亡くしているらしいので、情状酌量の余地がある。だいたい今のご時世、いかがわしくない商売を探すほうが困難である。
(しかしきみは、一度も遅刻したことがないんだよなあ)
思わず担任が感嘆の声を上げたものだ。無断欠席は度々すれど、登校する以上は必ず間に合った。それも毎回、かなり際どい時間をついて。
一応名門で通っている、この学校の女生徒たちは、本人が考えている以上に、厳しい監視下に置かれていたが、どうやら彼女のほうが何枚かウワテであるらしい。鵜の目鷹の目の教師たちの穿鑿をくぐり抜けて、かなり好き放題やっていた。
「そうじゃないんです。どうしても、八幡さんに頼みたいことがあって……」
消え入りそうな調子で、クラスメイトは言うのだった。実際には、二葉より拳ひとつ半ぶん背が高く、体格もよい。古風なセーラー服が気の毒に思えるほど、胸も大きい。二葉はちょっと、眉をひそめた。
「そんな言い方されたら、鎮守のお社になったみたい。二葉でいいわ。あなたは……」
「鳥辺野です。鳥辺野霞美」
体格だけ眺めていると、カスミとなって消えそうにはとても見えない。顔立ちといい物腰といい、ずっと二葉より大人びている。私服なら二十代には見えるだろう。それでも名は体を何とやらで、やはり今にも消え入りそうな印象を、よくあらわしていた。
「ごめんなさいね。無欠の常習者だから、いまだにクラスの子の顔と名前が一致しないのよ。ちょっと珍しい苗字だし」
他人のことを言えた義理ではなかった。けれど、トリベノ、という響きには、なんとなく記憶の底に引っかかるものを感じた。ほかに同姓の知り合いでもいたっけ?
二葉は階段に腰をおろした。話を聞こうじゃないの、という意思表示のつもりで。これより上は、封鎖された屋上へ続くだけなので、わざわざ足を運ぶ生徒はまずいない。二葉はというと、天体望遠鏡のドームに棲みついている情報屋、「千里眼」を久しぶりに訪ねてみようという魂胆があった。
じつは彼女自身、いろいろと悩みを抱えていたので、相談する相手が欲しかったのだが。途中で鳥辺野霞美に、呼び止められてしまったのだ。律儀らしく突っ立ったまま、霞美は言う。
「アルバイトを探しているんです」
「ふうん」
「ちょっとお金にこまってて……」
明り取りの窓から血の色をした夕陽が入り込み、薄汚れた壁に映えていた。音楽室で思い思いに管楽器を吹き鳴らす音が、空調の震動を掻き消し、狂想曲じみて響いた。うつむいている霞美の顔が赤いのは、夕陽のせいばかりではないのだろう。
学校でアルバイトは禁止されており、ごく一部の職種に限って例外が認められるものの、迷路のように煩雑な手続きを必要とした。よほどの事情がない限り、許可されないと考えたほうが早い。もし無断で働いているところを見つかれば、即刻の退学が待っていた。
もちろん、新東亜ホテルにおける二葉のアルバイトは、まったくのモグリである。