59(3)
とめなければ。嘘でもいい。何でもいいから叫んで、彼女を留めなければ。
さもないと。
でも。
彼女は美しかった。虹色の翼がはばたいた。降りしきる花弁の中で、彼女は振り向いた。
「アリーシャ……」
「覚えています、マスター。約束したこと、決して忘れません」
「よせ、アリーシャ、アリーシャ……アリーシャ!」
翼の上で、なめらかな黒髪が揺れた。おれは前にも一度、こんなふうに女の名前を叫び続けたことがあった。何度も何度も、叫び続けたことがあった。
彼女は剣を腰のあたりに構え、正面からIBに突っ込んだ。おれはどうすることもできず、呆然とそれを見ていた。舞い散る花弁。白光を放ちながら、二重螺旋の剣が、IBの体の中心を貫いた。そのまま胴から背へ貫通し、ピラミッドの内部を破壊して、切っ先をあらわした。
怪物の体に無数の亀裂が走り、血の色をした光があふれた。破壊されたCOEが膨張し、IBの体を内部から引き裂くのだろう。おれは反射的に横に跳んで、立ち尽くしているトリベノに体当たりした。かれと一緒に床に伏せたとき、すさまじい閃光が一本の巨大な柱と化して立ちのぼるのを見た。
轟音と爆風。
小テーブルが吹き飛ばされ、花瓶や酒器もろとも、砕け散る音が随所で響いた。ようやく目を開いて顔を上げたとき、あれほど飾りつけられていた広間は、完全に廃墟と化していた。
それでも、花綵のリングが果たした役割は明白だった。花づなに囲われていた部分だけ、床がごっそりと掘り返され、深々と穴が開いていた。もしもCOEの爆発がリングの外で起きていたら、おれもトリベノもマキも、とっくに粉砕されていただろう。
「アリーシャ……」
おれは身を起こし、這いずるように穴に近づいた。吹き上がる黒い煙は、雷雲のように蒼い放電を含んでいた。穴の周りは飛び上がるほど熱を帯びていたが、構わずに這い進んだ。煙と熱を避けながら見下ろすと、中は焦げたコンクリート塊で覆われ、アリーシャはおろか、IBの破片さえ見当たらなかった。
ふと、指先が何かに触れた。穴の縁に、一枚のカードがかろうじて引っかかっていた。
拾い上げて見れば、果実や花に囲まれて、三人の人物が杯をかたむけている絵が描かれていた。三人とも古代ふうの衣装を身につけており、うち二人は女で、もう一人は後姿で衣装も異なるが、男なのかもしれない。男の表情はわからないが、女たちは髪を花輪で飾り、楽しそうに笑っている。
何を意味するカードなのか、おれにわかるはずもないが、つくづく眺めたあと、それをポケットに忍ばせた。ほかに彼女の痕跡は、何ひとつ見つからなかったから。
おれは玉座をかえりみた。椅子はなぎ倒され、置き去りにされた主人が、うつ伏せに横たわっていた。仮面が外れて、床の上でまっぷたつに割れていた。そのかたわらにトリベノが立ち、じっと男を見下ろしていた。例の機械を赤子のように抱いて、硬い表情のまま、火のついた煙草をくわえていた。
「そいつはいったい何者なんだ?」
トリベノはこちらを見て、また視線を男の上に戻した。自分で確かめろというのだろう。おれは近づいて身をかがめ、男の顔の向きを変えた。見覚えのある顔だった。もっとも、おれが知っている顔はずっと痩せていたし、瞳の色も違っているが。目もとや鼻の形などは、いかにも父親と似ていた。
間違いない。そいつは竜門寺武留だった。
竜門寺真一郎の次男。一時は竜門寺家の最も有力な後継者とみなされていた男。若くして様々な学位をほしいままにした天才的な学者であり、政治家としても頭角をあらわしつつあった。クーデターのあと、人類刷新会議による血眼の捜査にもかかわらず、杳として行方の知れなかった人物の一人だ。
(なぜこの男が……こんな所に?)
不自然な突起に気づいて、かれの背からマントを払いのけた。背中の中心にナイフが深々と刺さり、すでに血が凝固していた。あの少年に、殺されたということか?
「おい、爺さん、これはいったいどういうことだ。あんた最初からわかっていたのか? こいつがここにいることを、知っていたのか? 知っていながら、おれたちを連れてきたのか? おい、何か言ったらどうだ!」
トリベノは答えず、代わりに世界が揺れ始めた。コンクリートや資材が次々と降り注ぎ、鈍い音をたてて転がった。揺れは一向におさまらず、いよいよ今度こそ危ないらしい。おれは走ってマキの体を抱き上げ、視線をめぐらした。タウロス一号と「目が」合った。
「オカエリデゴザイマスカ」