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傷口はすっかり塞がっていた。ただ眼玉が胸部の中心に移り、そこにだけ縦の亀裂が残っていた。頭部に相当する部分には舟形の穴が開き、赤く発光する何かが生えようとしていた。
もうひとつの眼玉か? それとも、「顔」が出てくるというのか。
赤い何かは、けれど脈動するばかりで、それ以上の変化を示さなかった。けっきょく頭部を欠いたまま、ごつごつと進化した姿はあくまでグロテスクで、そして限りなく不完全な印象を与えた。ともあれ、メタモルフォーゼは完了したらしい。
怪物が一歩踏み出すと、爪で床がえぐられた。くぐもった唸り声は、含み笑いしているように聞こえた。左腕を持ち上げたかと思うと、長大な爪が、たちまち前方へ飛び出した。奇怪なゴムのように、腕が際限なく伸びるのだ。
「避けろ、アリーシャ!」
小テーブルがばらばらになり、果実の成れの果てが、床にぶちまかれた。軽やかに宙を舞って避けた彼女が着地する地点を狙って、もう片方の腕が伸張した。次に爪がとらえたのは、コリント式を模した支柱だった。力が籠められると、一抱えでは済まない柱をたちまち粉砕した。部屋全体が揺れて、コンクリート片が降り注いだ。
かろうじて立っていられるほどの揺れが、長く続いた。このままでは天井が落下し、おれたちは残らず圧し潰されるのではないか。大きな瓦礫が落ちてきて、タウロス一号の肩を直撃した。片腕をもぎ取られ、火花を吹きながらも、一号はじっと立ち尽くしているのだった。
玉座を見れば、相変わらず仮面の男が寝そべり、無言でこちらへ目を注いでいた。少年もまた揺れをものともせず、玉座のかたわらに姿勢よく控えていた。
やつらは、IBと心中する気なのか?
いくらか揺れがおさまる頃、肩に軽く指が触れた。いつの間にかアリーシャがそばにいて、かすかに微笑んでみせた。おれは驚きに目を見張った。
「よせ。これ以上使ったら、次こそ体がもたない」
「構いません」
一枚のカードをかざしてみせた。天使だろうか。羽根の生えた少女たちは双子とおぼしく、捧げものをするように、大きな花綵をかかげていた。彼女たちの周囲には四本の支柱が立ち、花づながそれに絡まって、葡萄棚のような屋根を形作っていた。
妻が所持していたオーソドックスなタロットカードにも、似た図柄があったかと記憶する。「蛇の剣」や「カラスの聖杯」と異なり、どこか心安らぐカードだ。
上体をひねって、IBが振り向いた。
爪で床を引っ掻きながら、蛇のようにのたうつ腕を元の長さに縮めた。完全に向き直ったやつの身長は、ゆうに二メートルを越えていた。左右に張り出した両肩の上で、偽りの眼球がおれたちを見据えた。赤い頭部が不吉な光をおびた。来る。
とっさに銃を乱射したが、例によって謎の推進器で突っ込んでくるやつを止めようがない。アリーシャにカードを使わせないための先制攻撃であることは、明白である。瞬く間にせまってきたIBの前に、そのとき、大きな影が立ちふさがった。
(タウロス二号?)
金属どうしがぶつかる音が、ホールに響きわたる。踵から火花を散らしながら、二号はIBを抱きとめた恰好で、二メートルほど後ろに押し返された。そのまま締めつけようとしたチャペックの腕から逃れて、IBは飛び退いた。装甲に覆われているが、両棲類的な動きは変わらぬまま。ほとんど四つん這いの姿勢で対峙した。憎悪に満ちた呻き声。
なぜ、タウロス二号は「裏切った」のだろう。
おれと友達になったからだなんて、童話的な理由は考えられない。さっきコリント式の柱を、IBが破壊したからではあるまいか。もともとタウロスたちは、シャングリ・ラの備品だった。命令が上書きされているとはいえ、旧来の使命が完全に消されてはいなかったのではないか。シャングリ・ラを壊すものは、すなわちかれの敵なのだ。
タウロスが自身のエプロンを引き剥がすと、一号と異なり、そこには四インチはありそうな砲口が埋めこまれていた。グレネードランチャーか。ずん、と腹に響く音のあと、IBの頭部で弾が炸裂した。怪物の足が宙に浮き、煙を吹き上げる肩の間を、ぐしゃりと床にのめり込ませた。
耳をつんざくような音に気づけば、どういう仕掛けになっていたのか、タウロスの右手が特大サイズの三重チェーンソーと化していた。そいつをIBの上に叩きつけるように振り下ろし、左手でがっちりロックしたから、たまったものではない。聞くに堪えない音が響き、怪物の両脚が断末魔の水棲ワームのように、びくびくと跳ね踊った。
吹き上がる火花と溶液を浴びながら、タウロスの一つ眼は表情もなく下方に固定されたまま。昨今の軍用チャペックより、はるかに恐ろしい。兇悪なまでの武装を、いったい何者が、この罪のない家事用チャペックに仕込んだのか。
IBの右手の爪が腕を引きずりながら、蜘蛛のように這うのを見た。たちまちそれは、タウロス二号の左足をつかんだ。