58(1)
58
プルートゥが猫の姿に戻り、赤い小さな舌でアリーシャの頬を舐めていた。
おれは身をかがめ、トリベノに近づいた。かたわらには、投げ出された花束のように、マキが横たわっていた。ドレスの裾に手を忍ばせると、思ったとおり、太腿の辺りで硬いものに触れた。そこからナイフを二本拝借して、両手に持ち、怪物に突進した。
むろん肉弾戦は得意ではないが、傭兵をやっていた頃から、ひととおりの訓練は受けている。案の定、ばかの一つ覚えで、怪物は爪のある右手を繰り出してきた。こいつをどうにかかわし、一本めのナイフを投げつけると、眼玉に当たる直前で、エナジー・シールドに跳ね返された。が、これも計算どおり。
おれは二本めのナイフを両手で逆さに持ち換えると、渾身の力で怪物の眼玉に突き立てた。
「南無八幡大菩薩っ!」
エナジー・シールドは発生せず、確かな、けれどもおぞましい手応えを感じた。幸いなことに、おれを跳ね飛ばしたのは、進化していないほうの手だった。床にしこたま背中を打ちつけながら、見ればナイフの切っ先は、意外にもしっかりと怪物の眼玉に突き立っていた。手を振り回しながら、怪物は二度と聞きたくないような叫び声を上げた。
自身の力とは到底思えない。妻から教わった呪文が効いたのか、それとも、ナイフにマキの想いが宿っていたのか……
「恩に着ます、マスター」
アリーシャはすでに身を起こし、新たなカードを手にしていた。プルートゥの首輪の上を滑らせると、猫とともに彼女自身の体も光に包まれた。翼の音がホールに反響し、彼女は黄金の聖杯を手にする、黒い天使と化した。血染めのコックを倒した時に用いたカード、「カラスの聖杯」だ。
彼女の体が浮遊した。
漆黒の翼が大きく羽ばたくと、十枚足らずの羽根がこぼれ落ち、大型の鞘翅類と化したように、宙を飛び交い始めた。血染めのコック戦では、この技は見なかった。アリーシャは右手の人さし指を伸ばし、高々とかかげると、次にそれを怪物に向けて振り下ろした。
燐光を発しながら、羽根は怪物に八方から襲いかかった。一枚一枚が鋭いナイフと化して、IBの肉をえぐるのだ。
IBの皮膚や筋肉は、タンパク質に非情に近い、未知の高分子化合物から成る。複雑怪奇に折りたたまれているため、現代の技術では、最新のコンピューターを駆使しても、立体的に解析できないといわれる。ゴムの柔軟性と金属の硬度を兼ねそろえ、驚異的な再生能力を有する。
ゆえにあらゆる方向から、羽根のナイフで絶え間なく切り裂くという攻撃は、相手の再生能力を封じる上で、最も合理的な方法といえるだろう。アリーシャはこれを頭で考えるかわりに、いわばカードの意志に委ねたのだ。
全身から溶液を噴出させながら、怪物は空をつかんでもがいた。地の底から響くような、くぐもった呻き声。眼玉に突き刺さったままのナイフが、蒼い炎を吹いた。アリーシャは、さらに高く舞い上がり、金色の聖杯をかざした。秘薬を作る儀式のような、静謐な動作でその口を逆さに返した。
杯の中身は三日月の形を描き、青く輝く大鎌となって、真っ向から怪物に突進した。とっさに振り上げられた爪とつぶかり、金属が切り裂かれる、ぎん、という音を響かせた。怪物の右手が、長大な爪ごと、ぐしゃりと潰れた。次の瞬間、青い大鎌は、眼玉を真っ二つにする恰好で、肩と肩の間に深々と食い入っていた。
悲鳴。怪物はよろめき、数歩後退りすると、空をつかんだ姿勢で動きを止めた。
青い光が消えて、大鎌が見えなくなった。あとには、ざくりとえぐられた亀裂が残った。溶液がどくどくと溢れ、見る間に床に溜まる。傷口から覗く切断された筋肉や、血管、神経のようなものが、虫のようにぴくぴくと蠢いた。
「処理したのか……?」
見上げると、彼女が堕天使のように落下してくるところだった。翼の抵抗力があるとはいえ、とても腕では受け止められない。おれは身を伏せて、彼女をどうにか背の上で弾ませた。床に転がると同時に、翼がまた粒子に解体され、収束して、黒猫の姿に戻った。
ドレスはぼろぼろになり、髪は乱れ、眉間に苦悶の皺が刻まれていた。それでもアリーシャはかろうじて身を起こし、荒い息を吐いた。たて続けにカードを用いたため、ダメージも大きいのだろう。おれはばかみたいに、さっきと同じセリフをつぶやいた。
「いいえ、マスター。まだ死んではいません」