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「もうしばらくは動かんよ」
いつの間にか、トリベノがかたわらに立っていた。鼻の頭を赤くして、上体がふらふらと揺れていた。
「だが、こちらから下手に仕掛ければ、やつの思う壺だ。やつらは何よりも、憎悪や攻撃欲が大好物だからな。しっかり取り込まれて、自己のエネルギーに変換される。ま、もと専門家のお前さんに注意をうながすのも、おこがましいがの」
「やはり、やつはIBなのか?」
「カンでそれがわかったのなら、お前さんもたいしたものだ。ちょっと失礼するよ」
後の一言は、玉座のほうを向いて発せられた。見れば、主人はやはり姿勢を変えておらず、かたわらに少年が控えるさまも、最初に目にした構図のまま。
頭の鈍いおれだが、いい加減、仮面の男の生存を疑い始めていた。床で砕けたワイングラスはおろか、背後で目をぎょろつかせている化け物すら、一顧だにせず、同じ姿勢を保ち続けているのだから。ただ、微動だにしないかれの体からは、いまだに生気を感じるのだ。殺気に近いほどの、すさまじい念のようなものを。
トリベノはリュックから、例のモグラの心臓を取り出し、眼玉の部分を部屋の奥へ向けた。ロックを外すと、機械の背面は蓋状になっており、モニターとキーボードらしきものがあらわれた。
「ふん、情報がだだ洩れだわい。鍵をかけるよう、あれほど進言しておいたのにな」
モニターを覗きこむと、ポリゴンから成る怪物の全身が映し出され、その横に様々なグラフや数値が表示された。波状を描くひとつのグラフが、オレンジから濃い赤へと変化している。処理班時代に、これと似たセンサーをおれも持たされていた。ワームなら緑。グラフが赤へ偏ったら、対象がIBである証拠だ。
ジギー・バンデル・ルーデンの超絶テクなみのハヤワザで、トリベノはキーボードを叩き始めた。これほど速く叩ける人間は、変態博士の助手、黒木しか覚えがない。数値がすさまじく変化し、グラフがブレークダンスを踊り、怪物のポリゴンがスキャンされてゆく。トリベノの額に汗が浮いた。
「五分だ」
「なに?」
「やつが仕掛けてきたら、まっ先に尻尾を切れ。それから五分で、やつの駆動能力の限界がくる。バルブと繋がっていなければ、まだまだ長時間の活動はできぬと見える。もっとも、IBを五分も操れたら、都市地区の一つくらい、軽く制圧できるがね」
「つまり、拳銃二丁で五分持ちこたえろと?」
爺さんは何も答えず、ニヤリと口の端をゆがめた。
処理班の場合、およそ十人前後のパーティーを組む。さらに一人に一体ずつ、軍用チャペックの相棒がつく。対IB用に特化されたスグレモノで、おれのサンポッドをはじめ、むしろかれらが主力といえる。このチームで、一体か、せいぜい二体のIBを狩るわけだが、それでも毎回、とんでもなく苦労するし、必ずと言ってよいほど犠牲者が出た。
サンポッドや、おれの妻のような……
考えてみれば、おれはあの悪夢の戦闘以来、一度もIBと闘ったことはなかった。ワームの駆除屋になり下がり、台所に住みついたゴクツブシやカンザシムシを、せっせと殺しては、エプロン姿の奥さんに礼を言われ、どうにか食えるだけの金にありついた。夢も希望もないかわりに、廃人同様の自分には相応しい暮らしだった。
それなのに、なんで今さら、IBなんかと闘わなければならない? しかもこいつは、これまでに一度も見たことのないタイプだ。擬人とも違う。IBそのものが二本足で立っている姿ほど、おぞましいものがほかにあるだろうか。
「あいつが……お父さんを?」
マキの声で振り向いた。蒼ざめた顔。色素の薄い目を見開き、唇を震わせていた。ぐらりと揺れた彼女の体を、おれはかろうじて抱きとめた。百万本の花束を抱いたような気がした。
「おそらくな。なに、五分でケリをつけてやる」
親指を立て、せいぜい不敵に笑ってみせた。もし、ばかの世界選手権があれば、上位入賞間違いなしだ。かすかな微笑が返ってくるのをみとめ、花束をトリベノにあずけた。立ち上がると、アリーシャの肩が、すっと寄り添う。彼女の足もとには、尻尾をぴんと立てたプルートゥがひかえていた。
「おれが陽動する。やつの尻尾を切れるか」
「やってみます」
アリーシャがカードを一枚抜いた。背後でトリベノの声を聞いた。
「そろそろ動くぞ、お若いの。向かって左へ、およそ四五度。高速だから気をつけろ」