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余興、という言葉から、おれは剣闘士の試合を連想した。古代ローマの宴席における血みどろの余興。どちらかが死ぬまでそれは続けられ、宴席の床を薔薇色に染めた。そういえば、仮面の主人の風貌は、どこか暴君ネロをおもわせる。
この妄想があながち遠くなかったことを、あとで思い知らされるのだが。
呆然とグラスを手にしたまま、再びおれの目は、猛禽と逆さAの紋章が描く、巨大な星に吸い寄せられていた。この感じ……骨の髄まで凍りつくようで、それでいて額に脂汗が浮くといった、この感じには、いやになるほど覚えがあった。
星の裏側に封印されているのは、あいつなのか?
だが、もしそうだとしても、いったいあれを押し籠めておく、どんな方法があるのだろう。アンチシェルターを築くならともかく、あんな狭い空間に、余興とやらが始まるまで、ずっと閉じ籠めておくなど、果たして可能だろうか。並大抵の拘束具など、ものの役にたたない。意図的に眠らせる方法もない。いや……
あれを用いたのか?
眠らせるための……だから、大量に……
夜想曲がいつの間にか途切れ、代わりに少年の哄笑が響きわたっていた。笑うときだけは、ボーイソプラノに戻るのである。
「食事はお気に召しませんか」
かれと目が合う。ついで、銀や透明な器に盛りつけられた果実へ視線を移した。遺伝子操作のまがい物ではない。葡萄の一粒一粒が、薔薇の花一輪に匹敵する超高級品である。それは認めるが、なぜかセザンヌの絵を眺めているように、食欲がわかない。次々と口へ放りこみ、噛み潰しているのはトリベノだけだ。
おれはちょっと肩をすくめて、グラスをテーブルに戻した。このワインにしても、瓶一本でビルが建つほどの値打ちものだろう。胸の前に右手を添えて、少年は言う。
「不行き届きな宴席となったことを、心よりお詫び申し上げます。仮面舞踏会としてお招きしたかったのですが。仮面はおろか、楽師さえご用意できませんでした。本来はタウロスが四重奏団として演奏いたしますところ、あいにく二体壊れておりますので、それも叶いません」
旧政権時代、首長や金持ちたちは、必ずといってよいほど、自前の四重奏団を持っていた。才能ある音楽家をスカウトする場合もあれば、チャペックを仕込んで用いる者もいた。あるいは生身の人間の音感を改造強化するという、非倫理的なことも平気で行われていたようだ。
もともとシャングリ・ラの備品だったタウロスたちは、掃除や調理から演奏まで、オールマイティーにこなすのだろう。そしてリミッターを外された現在は、刺客の技をも。
「代わりに、とは申しませんが。珍しいレコードを手に入れましたので」
再び少年は、真鍮の筒のある箱に近づいた。写真でしか見たことがないが、蓄音機というのではなかったか。かれは箱の上の円盤を外し、別のものと取り替えた。おそらくあれが、レコードというのだろう。音波が刻みつけられた、最も原始的な記憶媒体。
さっきと同様な操作でアームが下ろされ、ワルツとおぼしい、音楽が鳴りはじめた。ベルリオーズの『幻想交響曲』第二楽章のワルツだ。おれが知っているくらいだから、とくに珍しい曲ではない。演奏家の顔ぶれが変わっているのか、演奏そのものが珍奇なのか、どちらかだろう。
なるほど、蓄音機が奏でるワルツは、記憶チップが再生するのと異なり、まるで別の曲に聴こえる。狂おしくも明るい曲だったのが、うつろな反響のせいか、狂おしさばかりが倍増し、限りなく陰惨に響く。まさに、サバトの席上で鳴り響くにふさわしく。
仮面の主人に目を遣れば、相変わらず椅子に寝そべったまま。手にしたワインは少しも減っていなかった。見開かれた目は、依然としてこちらに注がれ、あたかもこの宴席が、かれの凝視する一幕の夢であるかのように錯覚させた。見ればアリーシャがおれの前に立ち、こころもち微笑んでいた。
「踊りましょう。マスター」
酔っているのではない。彼女はワイングラスに、一度も口をつけてはいない。断ろうとして思いなおしたのは、何か意図があるかもしれないと考えたからだ。とくに心得もないが、適当にやるしかない。おれは「シ(はい)」とこたえ、架空の帽子を脱いでひざまずく恰好。彼女は足首を交叉させ、両手でスカートをちょっと持ち上げた。
今さら気づいたのだが、彼女の足首は、よくこれで体重が支えられると感心するほど、細いのだった。
おれたちは手を取り合った。床にいくつも円を描きながら、見れば、トリベノは片手で小テーブルにもたれ、鼻の頭を赤くして、自棄になったようにワインを飲み続けていた。マキはわき目もふらずに、仮面の男と少年がひかえる、奥へ向かって歩いていた。
(え……?)
玉座の前で立ち止まると、彼女はスカートをつまんで身をかがめた。