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仕切りがあるとはいえ、ご婦人がたの肩から上は何となく見えている。彼女たちは、脱いだ服を衝立の上に引っかけ、順番にシャワーを浴びている。
「着替えんのかね」
見れば、爺さんはすでにタキシード姿で、指で蝶ネクタイをぴんと張っていた。みょうに似合ってはいるが、一旦演奏が始まれば、狂ったようにタクトを振り回す老指揮者といった風情。おれは片手をあげた。
「遠慮しておく。死に化粧みたいで気に食わない」
トリベノは皮肉のひとつでも返そうとしたようだが、鼻を鳴らしたばかり。この男、上流階級の集まりに、場慣れしているのではないか。
首長連合の時代、議会よりも幅を利かせていたのが、社交界である。首長たちのサロンには、着飾った魑魅魍魎のごときヤカラが集い、目配せや指の合図ひとつで、大金や法令や人事が、右から左へと動いた。サロンで首長の気を引いた者が成功者となり、寵を失うことは、すべてをなくすことを意味した。
明らかに、トリベノは旧政権のサロンに出入りしてたフシがある。
着替えを終えてあらわれた女性二人には、目を見張らずにいられなかった。マキはお伽話の妖精のようで、アリーシャは神話の精霊をおもわせた。もともと神秘的なアリーシャはともかく、マキの変貌ぶりには驚かされた。昨日まで鉄仮面をかぶり、ジーンズ姿でナイフを振り回していた娘とは、とても思えない。
「エイジは着替えないの?」
「ああ。ピエロの衣装でもあれば、着たいんだがね」
肩をすくめているマキの横を、ぎちぎちと音を鳴らして、タウロス二号が通り過ぎた。小ランプを明滅させながら言う。
「ソレデ、ハ、ゴ案内、イタシ、マス」
大仰な浮き彫りのあるドアの取っ手に手をかけた。いかにももったいぶった、蝶つがいの軋む音。あふれる光。開かれたドアの後ろには、もう一体のチャペックが立っていた。
タウロス二号と瓜二つだが、エプロンはつけておらず、代わりに胸に描かれた逆さAの紋章が、逆光の中にありながら、鮮明におれの目を射た。おそらくあれが、タウロス一号に違いない。
一号は、これも二号と瓜二つの、ぎこちない会釈をすると、片手の指をそろえて、ドアの向こう側を指し示した。
「オマタセ、イタシ、マシタ。ドウゾ、オ入リ、クダサイ。マスター、ガ、オマチシ、テ、オリ、マス」
ドアをくぐるとき、あまりの眩さに、覚えず目を細めた。そこは舞踏会が開けそうなほど広い部屋で、実際に、十九世紀末ウィーンあたりの邸宅のレプリカかもしれない。床は控え室同様、磨きこまれた市松模様で、無数の模造燭台の灯りを、ぎらぎらと反射させていた。
所々に小テーブルが置かれ、古い静物画のように、様々な果実が盛られているテーブルもあれば、別のテーブルには、血で染めたような薔薇の花が、たっぷりと生けられていた。
部屋の奥には、玉座をおもわせる、大仰な肘掛け椅子がひとつ。ほとんど寝そべるような恰好で、一人の男が座っていた。この男が、主人なのだろう。
まるまると肥えた肥満体は、二人はゆうに寝そべれそうな椅子さえも、窮屈に見せていた。いかにも上質なタキシードの布地。その上からマントを羽織り、赤い裏地を覗かせながら、波紋をおもわせる襞を床になびかせている。男の髪は黒々として、髪油に輝き、肩に届くほど伸ばされている。
おれたちは、部屋の中ほどまで進んだ。
主人とおぼしい男は寝そべった姿勢のまま、指一本動かさなかった。その蒼白な顔を見て、覚えず足を止めたのだ。ひっ、とマキが息を呑む声が聞こえた。主人の顔は、眼の部分だけがくり抜かれた、のっぺりとした仮面なのである。尖った鼻の下に白いヒゲをたくわえ、薄笑いを浮かべていた。
けれど、おれをゾッとさせたのは、不気味な仮面よりも、その二つの穴から覗く眼のほうだ。大きく見開かれたまま、瞬き一つせず、おれたちを凝視している。灰色の瞳は、ほとんど白に近いほど、色素が失われていた。
玉座のかたわらには、一人の少年が仕えるように立っていた。ポスターの束こそ持っておらぬが、バルブのあるドームへおれたちを導いた、あの少年に違いなかった。冷たい無表情が、調った顔立ちを、いっそう仮面じみて見せた。
玉座の背後には、部屋を横断するかたちで、巨大な幕が張られていた。亜麻色の幕の中央に、シンボリックに描かれているのは、羽と脚を大きく左右に広げた、猛禽類らしい鳥である。そうして鳥の絵の上には、逆さAの紋章が重ねて染め抜かれていた。震える声で、おれはつぶやいた。
「この星は……」
逆さAに対して、猛禽が広げた羽と脚の線が重なることで、一つの巨大な星が浮き彫りにされているのだ。正三角形と逆三角形を重ね合わせた、魔術的なシンボル……
ダビデの星だった。