55(2)
前方は闇である。
おれはトリベノを押しのけて、銃を抜かずに一歩踏み出した。奈落ではなく、硬い床が体重を受け止めた。手を突き出しても、触れるものはない。数歩歩いたところで、背後でゴンドラの閉まる音を聞いた。そしてまた、沈黙。
闇よりも、静かすぎることが、おれの神経を参らせた。考えてみれば、地下では常に響いている重低音をはじめ、何かしら機械の音が鳴っていた。それにこの芳香。機械油や、朽ちた金属のにおいに慣れきった鼻には、むしろおぞましいものに感じられた。
闇と静けさと芳香。そこから連想されるのは、死以外の何ものでもない。
かちりと小さな音がして、赤い光に闇が溶かされた。トリベノが一インチほどの小型ライトをかざしていた。周囲を照らすのを目で追えば、ここは十二スペースほどの小部屋であるらしい。多少の家具があり、壁に絵がかかり、鏡があり、床はシュールレアリスムの画家が好んで描くような、市松模様である。
猫脚のサイドテーブルの上に大きな青磁の花瓶が置かれ、薔薇の花がたっぷりと生けられていた。芳香の正体はこれだった。
いたって無粋なおれだが、薔薇が高級品であることくらい知っている。切り花一本ぶんで、デートに締めて行けそうなネクタイが買える。しかるに、この部屋はたしかに調度も贅沢だが、すべてにおいて小ぢんまりとしており、いかにも「控えの間」といった風情。何万サークルもする薔薇を飾るに相応しい場所とは思えない。
「まるで、おれたちのために用意された楽屋みたいだな」
そうつぶやいたとたん、灯りがともった。天井の模造燭台が投げかける、やわらかな光。壁紙が薄いグリーンであることを、初めて知った。というより、無数の色彩が存在することを、忘れかけていた。
振り返ると、エレベーターが存在した痕跡はまったくなく、どんなカラクリなのか、そこも奇麗に壁紙で覆われていた。中世ふうにデザインされたヒナギク模様。継ぎ目はどこにも見当たらず、ご丁寧に、庭園を描いた八号ほどの油絵までかけられていた。現在はどこにも存在しない、緑あふれる幸福な庭。
「開かないみたい」
マキが言う。向かい側にドアがあり、彼女はノブに手をかけて、皮肉らしく小首をかしげていた。古い木材の軋む音をたてて、トリベノが椅子に座った。
「舞台の用意が調うまで、しばらく待っておれ、ということではないかの」
「舞台だと?」
尋ね返したおれを、爺さんは口の端をゆがめて受け流した。そこにはもう、火のついた煙草がくわえられているのだった。アリーシャもプルートゥを抱いて、ほかの椅子に腰をおろした。部屋に点々と据えられている椅子は、偶然なのか何なのか、ちょうど人数ぶんである。おれは肩をすくめた。
「そのうち、メイドが茶でも運んで来るんじゃないか」
そう言ったとたん、がたんと音がして、部屋が少し揺れた。見れば側面の壁に四角い穴が開き、いかにも旧式のチャペックが入ってくるところだった。家事用とおぼしく、無骨な体にエプロンを巻きつけ、両手にささげた盆の上では、白磁のカップが四つ。甘い香りのする湯気をたてていた。カラクリが多すぎるこの部屋は、あまり心臓に宜しくない。
一瞬後にはチャペックの背後の穴が閉ざされ、まっさらな壁に戻っていた。ぎこちない二足歩行でチャペックは四歩進み、足を止めたところで小腰を屈めた。礼をしたらしい。それでも盆だけは水平に保たれ、紅茶は一滴もこぼれていない様子。喜々として近寄ろうとしたトリベノを、おれは手で制した。
「うかつだぞ。刺客だったらどうする」
軍用を家事用に偽装するのは、使い古された手だが、充分有効だ。あるいはリミッターを外せば、家事用でも銃くらい撃てる。近頃では技術が向上して、八幡兄弟ほどの腕がなければ、外せなくなっているが、旧式ならば事は簡単。
それにこいつのセンサーは、おれたちを襲った掃討車や軍用チャペック同様、眼玉をおもわせる形状ではないか。爺さんはけれど、鼻を鳴らしたばかりで、
「シカクもサンカクもあるものか。茶の一杯くらい、飲めなくてどうする」
意味のわからないことを言いつつ、カップを受け取った。首の付け根から細い隠し腕があらわれたときは、ぎょっとしたが、マニピュレーターの先にあるのは、灰皿だった。トリベノがそれで煙草を揉み消すと、チャペックはまた礼をし、おれの横を素通りして、マキの前で止まった。レディーファーストというわけだ。
最後におれに歩み寄り、カップを取りやすいよう、小腰をかがめた。至近距離で眼玉と見つめ合うのは、あまり気持ちのいいものではない。
「質問に答えられるか?」
「ロボット三原則、ニ、ノットッテ。タダシ、限定的、ニ」
喋りながら眼球がうごめき、いくつかの小ランプが点滅した。無機質な声といい、いかにも大昔のSF映画に出てきそうな「ロボット」である。