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どれくらい眠ったろうか。星も太陽も見えない『幽霊船』で三日も暮らせば、昼夜の感覚が完全に狂ってしまう。
身を起こしてみれば、マキとトリベノが書類を枕に、ぐっすりと眠っていた。やはり疲れたのか。屋外で野宿するのと異なり、帆布ひとつ身に纏えば汗ばむほど、温かいことだけが身上である。
アリーシャとプルートゥの姿は、どこにも見当たらなかった。
覚えずエレベーターのほうに目をやったが、眠る前と、とくに変わった様子はない。ゴンドラが開くときは、かなり音が響くから、さすがに起きられる自信があった。つまりアリーシャと黒猫は、エレベーターに乗って消えたわけではないことになる。
ならば、煙のように消えたのか?
「アリーシャ」
はい。という返事がすぐに帰ってきた。この風変わりな事務室の隅。エレベーターとは反対側の柱の陰から。プルートゥが顔を出し、こちらを向いて小さく鳴いた。おれは苦笑しつつ、帆布を押しのけて立ち上がる。
「眠っておかなくていいのか」
不思議な匂いに気づいた。それは彼女がいつも漂わせている薔薇の薫香に似ているが、それよりもずっと強く、湿った香りだった。歩み寄り、柱の陰を覗いたまま、おれは石化した。蛇髪の妖女に見つめられたのではない。アリーシャは片膝を立て、もう一方の脚をまっすぐ投げ出していた。何も身につけていなかった。
目を逸らそうにも、石化してしまったのだから、見つめ続ける以外にない。彼女は立てた膝から腿の両側へ、なめらかに両の掌をすべらせていた。ゆるやかに踊るように。掌が行き来した跡には、引き締まった褐色の肌が、なまめかしい光沢をおびた。
彼女のかたわらには、平たい缶が開かれていた。中に詰まった油脂を、塗りこんでいるらしい。香油、という単語が脳裏をよぎる。魔女が空を飛ぶ前に、それを全身に塗りこむという秘薬……おれに凝視されながら、彼女は手の動きを止めなければ、裸身を隠そうともしない。
そうして彼女の全身には、無数の赤い筋が浮き上がっていた。
「体が火照るのです」
「えっ」
「プルートゥを使ったあとは、どうしても。今回は弱いカードでしたから、油を塗るだけで事足りるのですが。強いカードを用いたあとは、ひと晩じゅう、のたうちまわることもあります」
赤い筋からは、不思議と、醜さもおぞましさも感じられなかった。うすらと、みずから発光する模様のように見えた。古代の異郷の戦士たちが、神々の加護を得るために、肌に刻んだ模様のように。
「どうしても背中に手が届きません。塗っていただけますか、マスター」
アリーシャの声は魔術的な音楽と化して、おれの脳裏で共鳴した。頭の奥が、じんと痺れた。幻惑されたように、おれは彼女の背後にひざまずいた。全身を薔薇の香油に浸された気がした。
体が火照ると彼女は言ったが、指をすべらせると、背中はひんやりしていた。硬質な中に、みずみずしい弾力があり、内側から掌を押し返されるようだ。彼女は立てた両膝に、乳房を押しあてた。ぐったりと傾いた背中に、時おり痙攣的な震えが走った。
「好い気持ちです」
おれは彼女の肩の上で手を休め、上腕に添って上下させた。背にもたれるようにして、細い首筋に軽く唇をあてた。
「こんなに苦しんでまで、カードを使う必要があるのか。アリーシャ」
「わたしの意志では、どうにもならないのです」
「きみは、カードに囚われているんじゃないだろうか。マキがみずからの意志で、仮面の中に囚われたように。きみのカードがよく未来を予言することは、おれも目の当たりにしたけれど。予言された未来は、過去と同じではないのか」
「あるいは、そうかもしれません」
彼女の手が、おれの手の上に重ねられた。ためらいがちに、そのまま乳房へと導いてゆくのだった。
「ですが、マスター。過去と未来の間には、今があることを、わたしは知っているつもりです。今だけは、今のわたしだけは、過去にも未来にも囚われず、自由にふるまえます。それが瞬きをするよりも早く過ぎてゆくのだとしても。マスター、わたしは自由です。今のわたしは、とても自由です」